短編小説 まだ、口はある。
「戦争からドロップアウトするよ。勉強を、全部忘れる。全部、捨てる」
 口に出すと、実に冷静な気持ちになれる。白い便箋が、心を無にするためには丁度いい。高級そうなものを買うことにはさほどこだわらず、近くのコンビニで一番安いものを買ったので、精神面での負担も少ない。
 メガネをかけた、無口そうでマナーの悪いコンビニの店員は、マニュアルどおりに接客をしたつもりだろう。声の大きさ。レシートを出す手つき。全てがまどろっこしく、ねとねととした接客で、その店での購買意欲はあの時点で三割程度は減少した。店内があんなに蒸し暑いのだから、空調設備も悪いと思う。あと一年後には、あの店はつぶれているに違いない。
 もっとも、もう関係はない店なのだが。
 目の前に広げた便箋に、さっき口に出したことと全く同じ文章が書いてある。もちろん、自分の手で書いた、正真正銘の手書きの文面だ。
 さらに、続ける。
「寿命というものについて考察をしてみた。案外、身近にあるものなのかもしれない。けれど、人の生死について深くは関係しないだろう」
 言葉に出しながら、意味をかみしめながら、そしてそれが筆圧へ比例する。心の中の気持ちが大きくなるほど、それに筋肉が反応する。便箋が、出すぎるインキで破れそうなのを、静かに見届けながら、長い文面を書き終える。
 死人に口なし――死んでしまった人間に、何かを問うても無駄である。死ぬことは恐ろしいのだ。何もいえなくなる。伝えるべきことがあって、どんなに重要だったとしても、もう何も語れない。
 今通っている大学は、都内でも名の知れた、偏差値上位の一流名門校だ。両親が各界の著名人だとか、一流大学に就職したいから通っているのではない。が、知らないうちに、受験のエレベーターに乗っていた。降ろされそうになったことはない。でも、今回は自分で降りようと決意したのだ。
「勉強を全て捨てたら、楽になれるのかもしれない」
 書いてから、乱暴な字になっていたことに気が付いた。
 ――今、自分は、怒っている?
 ――よくあるじゃないか。賢い人間が、そんな戦争に嫌気がさすなんてよくある。となれば降りればいい。降りても、この社会で生きていける術くらいあるだろう。実際に、そう思う。
 自分のしたいことが、分からなくなってきた。
「勉強をしたら苦しいことだらけなわけじゃない。やり続けていればいいこともあるだろうしさ」
 そう自分に言い聞かせても、今さら落ち着かないので、すぐにやめることにする。だって、今までも戦争のような状態に巻き込まれてきたのだから。
 テスト、プリント、ワーク、参考書。気が付くと机は、それらの『手榴弾』でいっぱいになっていた。武器にはなるが、自分も傷つけることにもなりかねない。
「自分は、何のために学んでいるのか?」
 どうやら、今のままだと学ぶ意味すら分からなくなってしまいそうだ。早々に、今日中にでもドロップアウトをしてしまおう。


 決めていた通り、無断で学校を休む。そして、家の床に座ったまま目隠しをする。暗示をする。
「全て忘れる――全て忘れる――全て忘……」
 ああ、安心した。死を選ばなくてよかった。全て忘れることが、今までの人生を払拭して、精算することになる。とても合理的だ。
 今まだある「口」を大切にしなければ。もちろん、あなたも。
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