短編小説 おい、先生
 俺は先生のことが大嫌いだった。
 いつからかといえば、それは入学式の日からだ。
 名簿順に自分の席につき、俺たちの名前を呼ぶ先生は、まだ初々しかったのだ。ネクタイもきっちりしめていたし、スーツもばっちり着こなしていた。しわだってひとつもなかった。ところが、先生は間違えてしまった。
「えーと・・・カワノ!」
 俺は数秒ぼけっとして、急に気が付いて小さな声で
「コウノです」とぼそっとつぶやいた。
 俺の名前は、河野正巳という。コウノ、と読むが、一応カワノとも読める。
 ただし、俺の人生の中で、間違えられたことはなかったのだ。
 だから、先生は第一の誤読者ってわけだ。
「あ、そっか。ごめんな。コウノだな」
 先生は細いペンで、教師必携とかかれた分厚い手帳に、なにかをこちょこちょとかきこんだ。
「次からはちゃんと呼ぶから」
 そういって笑った。
 初めて間違えられたんだから、俺は先生のことが嫌いになった。

 それから毎日のように、先生は俺の名前をカワノ、カワノ、と呼び続けた。
 いちいち訂正していたが、一週間もするといやになってきた。
 中学生にもなって名前ごときでいちいち先生にはむかってるなんて、ちょっと子供じみていていやな気がした。しかし、それを放っておけば、なじみのないクラスメイトから「カワノさん」扱いを受けかねない、と俺の中の危機感は日に日に高まっていった。
 入部したての野球部ではじめに友達になった、隣のクラスの奥田は、部活中にそんな俺のぐちをよく辛抱してきいてくれていた。
「奥田、きいてよ。また間違えられた」
「例の先生か。・・・そんなに気になるなら、直接いえばいいのに」
 奥田は正論を吐いた。
 そんなことはわかってるんだけどな、と俺は思いながら、彼のアドバイスを反芻した。
「俺、先生はあんまり好きじゃないんだ」
「先生って、その担任が?」
 いや、と俺はすぐに否定した。
 俺は、先生ってのがちょっと嫌いだった。
 教壇の上から押しつけがましく出席を取り、あたかも権威のようにクラスの中でふるまうのは、いったいそんな態度を教育実習のどこで学んできたんだと言ってやりたかった。
「コウノって、そういうところまじめだよな」
 どこがだよ、と言いながら俺はちょっとそっぽを向いた。

「コウノ〜、コウノ〜」
 教室で聞きなれた、いや、聞き飽きた声がする。担任の声だ。
「コウノ、今日いないのかー?」
 俺はそれを聞き、コウノコウノってなんだようるさいなぁ、と思った。

 ん、いや、コウノ?


「先生、それってひょっとして俺のことですか!」
 俺は思わず目を見開いて、先生に問うてしまった。
 しまった、ともとに戻る。とんでもなく恥ずかしかった。悔しくもあった。
「え、お前の名前、コウノなんだろ?」
「・・・はい」
「・・・じゃあ、コウノはお前のことなんじゃないのか?」
 なんともいえない空気が教室に流れた。笑っていいのやら、嘲笑すればいいのやら、放っておけばいいのやら。
 俺だって、誰かなにかリアクションしてほしかった。じゃないと、本当に恥ずかしかった。
 見事に、先生に期待を裏切られた。
 なんだかちょっぴり、悔しかった。


 放課後、部活に行こうとしたとき、廊下のはしで担任の先生とすれ違った。
 今日はトレーナーにチノパンというラフな格好をしていた。
 これから顧問をしている卓球部にいくのだろうか。
 でも、昨日も同じパンツをはいていたような気がする。
 結局、俺と先生は、お互いにあいさつをして通り過ぎただけだった。
 何事もなかったかのように、彼は俺に特別なリアクションは取らなかった。

 そこで我に返った。
 俺は、先生に何かを期待していたんだろうか?
 何か特別なリアクションを取ってほしかったのか?
 違うはずだ。俺は、入学式以来先生のことが嫌いになったんじゃなかったのか。

「おい、先生」
 もううしろすがたになってしまった先生に、そう声をかけた。
 先生はちょっと立ち止まったように見えた。
「先生」
 もう一度、呼んでみる。
 理由はないけど、先生のことをはじめて、先生、って呼んでみたくなったのだ。
 俺の先生は、何もいわずにまた歩き始めた。
 俺も同じように、部活へと急ぐことにして、小走りに廊下をすすんだ。


「おい、先生」
 先生は振り返る。「お、コウノか」と言いながら。
 いつしか地球は、太陽のまわりを一周してしまっていた。
 桜のつぼみも、ふくらみはじめた。
 学年末テストも、みんな採点されて返ってきた。
 そして俺の先生は、今日をもって、俺の担任ではなくなる。
 だからって、突然ふりかえってにっこり笑えばいいってもんじゃない。
「俺、コウノですよ」
 ちょっとふてぶてしい顔で俺が突っ立っていると、先生はにこりとした顔で言った。
「君はほんとうにそういうところはまじめだね」
 先生なんて、ほんとうに、大嫌いだ。
 俺はちょっとだけ悔しかったけど、ちょっとだけ笑った。
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