▼たぬき セロ弾きのゴーシュ1
どうも、一期生のたぬきです。
今年表現活動で発表した「セロ弾きのゴーシュ」に関して、せっかくなので考えたことを語ってみたいと思います。


セロ弾きのゴーシュのライブラリの中に、「本当のドレミファにはまる」という表現があります。
こんな場面での表現です。

ある日ゴーシュの家を尋ねて来たかっこうが、ドレミファを教えてくれとゴーシュに頼みます。
ゴーシュは前の日に猫にバカにされていたので、イライラしていました。
何度も頼むかっこうに仕方なく、かっこうかっこうという拍子をとってドレミファをセロで弾いてやりました。
そのうちに手が痛くなってやめると、かっこうは「あなたの(ドレミファ)は、いいようだけど少し違うんです」と言います。
ゴーシュは頼んだくせに生意気だと怒ります。
しかしまたかっこうが何度も頭を下げて弾いてくださいと頼むので、「これで最後だよ」と言ってまた始めます。
しかし弾いているうちにゴーシュは、なんだかかっこうの方が本当のドレミファにはまっているぞと思うようになりました。どうも弾けば弾くほど、かっこうの方が正しいような気がするのです。


「本当のドレミファ」とは、なんなのでしょうか。
それを考えることなく、ゴーシュはその日かっこうを傷つけてしまいました。
表活メンバーの間でもその意味を話し合ったりしましたが、俺は発表会でまるで子だぬきがゴーシュのセロの不備を指摘してくれたときのように、はっと気づかされました。
それは、福島地区の十五少年漂流記の発表を見た時でした。
福島地区の中高生たちは、舞台の上に十五少年漂流記の物語の世界を作り上げていました。あの発表を見た時に俺は、「こいつらは本当の十五少年漂流記にはまっているぞ」と思ったのです。
テーマ活動が誰かに伝わるものになる時、それは発表する人全員が一つの同じ世界を見て表現したときだと思います。
自分なりにライブラリを「解釈」して、それをみんなで共有しあい、自分たちの「解釈」したライブラリを「表現」できたなら、観客に「本当のライブラリにはまっているぞ」と思わせることができると思うのです。


ゴーシュが思ったのも、そういうことだったのではないでしょうか。
ゴーシュがセロを弾いてやる前にかっこうが頼み込んでいるとき、こんなやりとりがあります。

「例えば、"かっこう"とこう鳴くのと"かっこう"とこう鳴くのとでは、聞いていてもよほど違うでしょう?」
「違わないね」
「ではあなたにはわからないんです。わたしらの仲間なら、かっこうと一万言えば一万みんな違うんです」

また、ゴーシュがセロでドレミファを普通に弾いたあとにこんなやりとりもあります。

「違います、違います。そんなんでないんです」
「うるさいなあ。ではお前やってごらん」
「こうですよ、かっこう」
「なんだいそれがドレミファかい。お前たちにはドレミファも第六交響曲も同じなんだな」

ここではっきりしているのは、かっこうが思い描いているドレミファをゴーシュが「理解していない」ということです。
ゴーシュがかっこう、かっこうと拍子をとって弾いたドレミファは形だけのもので、なんの「解釈」もなくやっているのです。
テーマ活動に例えるなら、ナレーションで言った事をただなぞってなんとなく動くだけのようなものです。
それに対してかっこうは自分なりにドレミファを「解釈」し、それを歌いながら表現しています。
ゴーシュはそんなかっこうを見て、「本当のドレミファ」にはまっているぞと思ったのでしょう。


皆さんは今までのラボ人生で「本当のライブラリにはまった」発表をしたことがありますか?
俺は今までにいくつかあります。
そういうものは、やっていてわかるんですよね。
せっかくテーマ活動をするのだから、「本当のライブラリにはまった」発表で見ている人に伝えたいですね。

それでは長くなりましたが、たぬきの一つ目の「語ってみた」、終わりです。
Arrivederci!
2008/11/21(金) 20:59
スポンサード リンク