* リコポディウム *




001

真っ白なドアの向こうからバサバサとはばたく音が聞こえる。

それは大きくなり、小さくなり、やがて低いうめき声とともに消えた。

「翼…ですか」

「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。少なくとも今は飛ぶことができない」

苦笑まじりの声は幾分つらそうであった。

どこか悪いのか何か助けはいるのか聞いてみたかったが、

この白いドア一枚が自分とドアの向こうの人物との距離をうまく保っている気がして、

そうするともうこれ以上声をかけることができなかった。

「ところでF。おまえの髪は……」

「赤毛です」

「巻いているか?くるりと?…縦に?」

「いいえ。あの、頭の上でまとめてありますが」

「そうか」

声の主はがっかりしているようだった。

それきりドアの向こうからが何の音も聞こえてこない。しばらくしてFは静かにその場を立ち去った。



002

「眠い。非常に眠い。目を閉じてしまえばいくらでも眠れそうな気がする。

まぶたが重い。頭の芯がボゥっとする。ボゥっと…そうだな…霧がかかっている。

この霧は優しくはない。強引だ。うかうかしているとさらわれてしまう。

だが、強引にあちらの世界に落とされようとも心地良さを感じるから不思議だ。

…眠い。もう目を開けていられない。こうしていると自らが発している音がよく聞こえるな。

これは心臓の音か?ドドドドド…。だんだん強くなってゆく。

……雨だ。しかもかなり激しい。

いや、雨音に混じって聞こえる規則正しい音は確かに心臓の……。

眠っている間も動いているのか。本当に体が休まるのは土の下でしかありえないのか。

それまでこうやってわたしの意識があちらの世界を漂っているときも、脳は、心臓は、肺は、

その他の赤くとろりとしたものたちは、正常に休むことなく機能しているとは…なんと…なんと……」



003

「寝てらっしゃるんですか」

激しい雨で外にも出られないのならせめてこの人とおしゃべりでも、と思って声をかけた。

ときどき聞こえる独り言さえ、今朝はまったく聞こえてこなかった。

白いドアの向こうにある部屋は、がらんとした何もない部屋である。

大きな窓があるがそれきりで、部屋の中の人物が寝ている他に何をしているのかFにはわからなかった。

本当に寝ているのだろうか。

ドアに耳をつけてみると、さらりさらりと布ずれの音が聞こえた。

足音は聞き取れないが、どうやら部屋の中を歩きまわっているようだ。

「寝て…らっしゃらないんですね…」

「……いいや。寝ている」

ドアの向こうの人物は妙に低い声で答えた。

「おそらく頭は寝ているのだろう。そうでなければこんなところでもう一度アレに出会うことなどありえない」

「ありえないのであれば幻覚でしょう…?」

あえて「アレとは何なのか」とは聞かなかった。

「幻覚とな。…ああ、しかしわたしはアレから逃れたい。せっかくの足が…!

……Fよ。もう行きたまえ。わたしは忙しい。こうやって長い間歩き続けているのに、

アレがわたしのあとをついてくるのだ。困ったことであろう?」



004

朝と夜の一日二回、Fはドアの向こうの人物のためにスープをつくった。

薄く切った野菜が浮いているだけの味気ない牛乳のスープだ。

それは毎日決まった時刻にドアの前へ置いておくことになっていた。

「なんでもいい。草だ。それと水を一杯」

ドアの向こうの人物は、自分の食べたいものを尋ねられるとこういうふうに答えた。

「いや、やっぱり草の上に水をかけておいてくれ」

まるで家畜の餌ではないか。Fは戸惑った。

しかし、どうにか頭を働かせ、水のところを牛乳にかえてスープにして持っていったところ、

おいしい、と喜んでもらえたので一安心した。

ただ、出来立ての湯気が立ったのをそのまま出したときには、ひどく機嫌をそこねてしまった。猫舌らしい。



005

『好きなようにおしよ。お腹がすいたら何かお食べ。…眠くなったら寝ればいいさ』

「何か…何を食べたらいいのだ?何を食べたら眠れる?」

『君の好きなものを』

「おまえは?」

『木の実や果物、それに小さな虫』

「わたしもそういうものを食べたらいいのだろうか。それとも…ああ、行かないでくれ。どこに行くんだ」

『遊びに行くのさ。歌いに行くのさ。君も来ればいい』

「残念だがわたしはここを動くことができない」

『どうして?翼があるじゃないか』

「翼?翼とは何だ」

『大きく広げてごらん。そして、はばたく…』

「待ってくれ。どうしたらおまえたちについて行ける?」

『飛ぶんだ。ずっとずっと上の方へ飛ぶんだ…』

「わたしに教えてくれ。どうしたら飛べる?…待て!…待てというのに……」



006

黄金の王子様とツバメの物語を語って聞かせていたFが口をつぐむと、しばらくの沈黙が訪れた。

ドアの向こうの人物は、ときおりため息を漏らしたが、それだけだった。

「お気に召さなかったのでしたら、そうおっしゃってください」

「F。そのツバメとかいうやつは空が飛べるのだな」

しびれをきらして口を開いたFは、ドアの向こうの人物とほぼ同時に

言葉を発してしまったことに驚き、その場で軽く飛び上がった。

「すみません…」

ドアの向こうの人物はくすりと笑った。

「おまえが謝ることはない。わたしはツバメが飛べるか飛べないのかが聞きたいのだ」

「鳥ですから…。王子様の金箔をくわえて飛びまわった、と」

それを聞くとドアの向こうの人物は満足げに、いいことだな、と言った。

そして、おまえはこの話を誰か他のやつにも話して聞かせたのか、と聞いた。

「まだ誰にも。今日の朝、この本を読んだばかりなんです」

ドアの向こうの人物は、また、くすりと笑った。

「…紙と書くものがあれば持ってきて欲しい」

食べ物以外のものを欲しがられるのは初めてのことである。

Fはすぐさま隣りの部屋から紙とぺンをとってくると、ドアの隙間から差し込んだ。

紙とペンが部屋の中に引っ張り込まれるときに、ちらりと青白く骨ばった指がのぞいた。



007

「よく来たな、怪物め。何をしに来た?わたしを連れ戻しに来たのか?

…フン。戻ってやるものか。あんなところになど…薄暗い…湿った…ついてくるな!

見よ。わたしにはおまえなど必要ない。おまえはもう捨てられたのだ。

…消えてくれ…頼むから。

わたしはもっと広いところへ行きたい。鮮やかなものを見、優しい音を聞きたい。

あの子に…会いたい。あの柔らかな土色の瞳…」

部屋の隅のぼんやりとした黒いものがぞわりと震え、消えた。意外にあっさりとした最後であった。

あの子に、と言った瞬間黒いものに動揺が走ったのが感じられた。アレはどうやらあの子を嫌って…。

壁にもたれかかって座り、投げ出した足を交互に動かしてみる。

おかしなものだ、これは。いまだにうまく使いこなせない。

しかし、自分にとって今必要なものはこれであって、あのいまいましい塊ではない。



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