鋼鉄異聞〜見えぬ日々〜第一話


灯火の不規則な揺らめきが、金襴に彩られた壁を照らし、何とも淫靡な空間を作り出している。
部屋の四隅に炊かれた香のたゆとう煙が柱を立て、天井に当たり幽かな雲を作り出す。

その中で、ぽっと灯された小さな炎が、ちりちりと音を立ててゆっくりと紫煙を燻らせる。
「どうぞ。」
紅に彩られた、ねっとりと、そしてこわく的な唇が煙管を加え煙草に火を灯し、馴染みの男に差し出した。
「ああ。」
差し出された男はごく自然な所作でそれを受け取ると、ゆっくりと口に運び煙草を味わった。
絹の厚重ねの布団に豪奢で金の掛かった調度の数々。
淫靡な華の襖絵に灯火の揺らめき。

ここは花街と呼ばれる、男にとっては極楽、女にとっては地獄と囁かれる歓楽街の一角。
女にとって男はどうやら馴染みの客らしく、そして男にとっても足しげく通った女らしく、まるで一幅の絵を見るように、見事なまでに美しく自然な空気が流れている。
「今夜は、お泊りに?」
そう言って女は、男であれば誰しも落ちぬであろうしなを作り男に甘え、そして誘惑する。
強要してもいけない、さりとてまるで無関心ではなく、どこか拗ねた甘えと、そして言葉の奥に寂しさを紛れ込ませるのを忘れずに、この街の女たちはそうして男を思い通りに動かす術を身につけている。
付けなければ、ここでは生きてはいけないのだ。
女は男の返事を待った。
いつもなら、女の言葉を受け男はただ一言「うむ。」と泊まる旨をその口から吐くのだが……
何かが違った。
久しぶりに男が女の下へと足を運び、女は嬉しそうに、いや、この時にはもう女の方が男に夢中になっていたから本心から嬉しそうに男を迎えた。
もう術とからではなく、女は本心から男が自分の元に戻ってきたことに有頂天になっていた。
だからこの男をせめてもう一日、いや贅沢は言わぬ。
せめて、夜明けを共に過ごしたい、そう強く願うのだ。
「……いや、止めておこう。この一服を吸ったら帰る。すまぬが、支度をしてくれ。」
そう言いながら男は残酷に女の願いを砕いてしまった。
「……分かりました。」
この男がそう言えば、その言葉が覆される事は無い。
強固な意志と揺ぎ無い心を持つ男だ。
無口な男だが、口に出した言葉に責任を持つ。
たかだか花街の遊女の一人。
この男を引き止める術も、そして手段も自分には無いのだ。
そして思い出す。
この男に抱かれている至福の時、鼻を掠めた甘い香り。
険の立った匂いではない。
柔らかく、どこまで優しげで、そう、まるで本当の花のような香り。
それが男から一瞬香った事を遊女は思い出し、男が暫くこの街に来なかった経緯を推測する。
ただ単に、国政が芳しくなく、国の中枢に位置するこの男は忙しく来られなかったのだと思っていたのだが、その香りを嗅いでしまった瞬間、遊女は自分が思い違いをしていたのではないか、と愕然とする。
ああ、恐らく、自宅に待つ方がお出来になったのだ。
だから、自分から足が遠のいたのだろうか……。
そう思いながら遊女は努めて至極自然に、男に問うた。
「……随分とお急ぎのご帰宅ですこと。またあの御家中のご老人が煩いのでしょうか?それとも……」
しゅるりと帯が結ばれ男の上着をそっと男の肩にかけ、そのまま男の背中にしな垂れ掛かった。
「お屋敷に、どなたか待っておられる方が、おいでなのかしら?」
ぴたりと男帯を結ぶ手が手が止まる。
やはり……
砕かれる心を支えるように、女は震える手を玉飾りを弄ぶ事で耐える。
「……そうだな。待っているかもしれん。」
そう言いながら男は、もう女には見向きもせずに女の手を外し部屋を出ようとした。
が、男は部屋の入り口に飾ってあった小さな白い花に目を留める。
遊女の部屋には珍しく、小ぶりの小さな花を付けた、どちらかといえば地味な花だ。
「すまぬが、この花を一輪分けてくれぬか?」
呆然と男の背中を見ていた遊女が、直ぐには対応できずにいると、男が再度同じ事を口にした。
「は、はい、構いませぬが……それで宜しいのですか?」
恐らく、自宅で待っている方に差し上げるのであろうが、遊女の部屋に飾られていた花ではまずいのではないのか?
ただでさえ香のきつい部屋だ。
ましてやその花の芳香は微弱で、既に部屋に焚き染められたどこか淫靡な香りが移っていよう。
そんな花を、大切な女に贈るというのか?
「ああ、これでいい。」
そういいながら、男はめったに見せぬ微笑を、その白い花に向けた。
途端、遊女の心に黒い炎が広がったが、遊女は何とか体面を繕い男を見送った。
しかし胸のどす黒い炎は消えてはくれず、堪らず遊女は残った白い花を全て下男に言いつけて捨てさせてしまった。




「おや、最近お帰りが早いですね。ようございます。」
以前はよく屋敷を空ける主に対して、燕准は慇懃ともとれる態度で恭しく出迎えた。
「うるさい。お前が頻繁に屋敷を空けてどうすると説教するから、こうやって帰ってるではないか。」
そう言いながら燕准は周瑜の外套を受取ると、そこから香ってきた覚えのある香りに少し意外そうな顔を作った。
「おや?今日は花街に出向かれていたようですが……お泊りではなかったのですか?」
周瑜は花街に出向いた時は必ずと言っていいほど、そのまま朝帰りが普通になっていた。
「気が向かなかった。」
「然様で。」
燕准は周瑜の言葉をさして気にも留めず流すと、そのまま部屋に追従して周瑜の支度を手伝った。
「陸遜はどうしてる?」
「もう寝室におりますよ。」
「そうか。」
周瑜の問いに、燕准はさして気にも留めず簡潔に答えたのだが、燕准の返答を待つか待たないかの内に、周瑜は部屋を出て寝室に向かってしまった。
その素早い動きに、燕准は半ば茫然としながら主の出て行った扉を眺めていた。
やがて、一つの考えに思い至る。
以前までは屋敷を頻繁に空ける(勿論国政が芳しくない時期以前から)主に、それ程までではないが小言の一つも言ってきた。
だが最近は、国政云々という問題を念頭に置いても、屋敷に帰ってくるようになったのだ。
その理由が……
「……まさか、お帰りになる理由は……まさかねえ……。」
最近あった大きな変化で思い当たる事、それは燕准にとってはけっして喜ぶべきものではなかったが、もしその事が周瑜にもたらした変化の理由だとすれば、主の変化を間近で見てきた燕准にとって、それはとても複雑な心境になってしまい、知らずに大きなため息を吐いた。



一方、そんな燕准の心を知ってか知らずか、当の主は自分の寝室をそっと空け、長椅子に陸遜が船をこぎながら座っている様子を窺いながら部屋に入った。
(あれほど先に寝てて良いと言ったのに……)
そう愚痴る周喩の顔は笑顔だった。
政務が長引きそうな時は必ず屋敷に一報を入れるようにしている。
だが今日のように、遅くなろうが帰宅できそうな時は特に何も連絡はしなかったので、今日のように陸遜は起きて周瑜の帰宅を待っているのだ。
再三先に就寝しているように言っても、頑なにそうはしなかった。
当初は何と頑固な子供かと呆れたこともあったが、今ではそんな所も何故か愛しいと感じるまでに心境が変化していた。
暫く陸遜の寝顔を眺めていた周瑜だったが、手に持った花を寝台の横の水差しに無造作に放り込む。
そして陸遜を起こさぬように寝台に寝かそうと、身体に腕を差し込み持ち上げた揺れで陸遜は目覚めてしまった。
「あ……しゅ、ゆさま……。」
寝起きの舌っ足らずな声が周瑜の名前を呼んだ。
「ああ、すまぬな。起こしてしまったか。だから先に寝ていなさいと言っただろうに。」
その言葉にふるふると頭を振る陸遜。
「いいえ、たとえお許しが出たとしても周喩様より先に布団に入るなど、僕が許せないんです。」
「何と頑固な子供だ。」
言葉はきつくとも、周瑜の声音は優しかった。
片手で陸遜を支えながら掛布を捲り陸遜をが寝かしつけて、周喩も一緒に布団に入る。
陸遜がふと見上げた先に、小さな花が房のように咲いているのが目に入った。
「あ、お花……」
「ああ、綺麗だったので、お前にと思い少し分けてもらったのだ。」
お前に少し、似ていると思った。
周瑜はその言葉を陸遜には告げず、心中でそう呟いた。
「ほ、本当ですか?ありがとうございます!」
思いがけない贈り物に、陸遜は喜びを伝えようと遠慮がちに周喩に抱き、周瑜もその小さな背に腕を回し抱きしめた。
「あ、なら僕お礼状を書かなくては。どなたに頂いたのですか?」
あどけなく訊ねてくる陸遜に、周瑜はバツが悪そうに視線を彷徨わせながらしどろもどろに答えた。
「あ、ああ……そうだな。その人が居る所は……そうだな、お前も大きくなれば行くといい。だが今は早いから、使いを出してやろう。それよりもどうだ、花は気に入ったか?」
周瑜はごまかすように話を逸らす。
それと知らずに、陸遜は周瑜からの贈り物をとても喜んだ。
「はい。とても可愛くて綺麗で。ありがとうございます。あの、それでお願いが……」
「何だ?」
「お礼状を書くの手伝ってくださいませんか?あ、お忙しいようでしたら、燕准殿にお願いします。」
「いや、大丈夫だ。明日仕事が終わったら手伝うと約束しよう。さあ、今日はもう遅い。眠りなさい。」
「はい……。」
その言葉を最後に、陸遜はあっという間に眠りの国の住人となった。
子供にはとても遅い時間だ。
それをいつも無理をして周瑜を待つ心根が、周瑜にはとても嬉しく、そして歯痒い様な気持にさせる。
周瑜は陸遜が寝息を立てたのを確かめると、陸遜の身体を抱きよせその柔らかな髪に顔を近づけた。
少しばかり周瑜より高い体温。
子供特有の、そして陸遜自身の香りであろう甘く穏やかな香り。
それら陸遜の全てを確かめると、ようやく睡気が周瑜を包み込んだ。

初めは確かに陸遜の為であった。
だがいつの間にか、陸遜の香りと、陸遜の感触、それらがあると今まで以上に周喩は心地良く眠ることが出来た。

陸遜よりも自分が陸遜を求めている。
それらが意味する事に周瑜は別段危機感も持たず感受していたが、いずれそれは周瑜自身にも、そして陸遜にも大きな影響を及ぼす、天の一滴である事に二人とも気づいてはいなかった。



後日、件の遊女の元に何とも初々しい字(て)で描かれた風雅な礼状が届けられたが、その字がどう見ても男文字である事に暫く呆然とした遊女だった。


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