鋼鉄異聞〜外伝〜

「……まことか?」
僅かに蝋燭の明かりが揺れた。
揺らぎが起こったことで、この小さな部屋の壁に張り付いていた二つの人影が奇妙に歪み、お互いを干渉し合い、見ようによっては互いの腹を探っているようでもあった。
「ああ、まことだ。俺は、今夜決行に移す。」
金の甲冑に身を包んだ人物が、力強く答えた。
その応えを聞き、青い軍服に身を包んだもう一人の人物が暫し沈黙し、やがて嘆息し声を発した。
「……考え直せ。証拠はないのだろう?」
「証拠はない。だが確証はある。」
金の甲冑に身を包んだ人物の、自身に満ちた声を聞き少しばかり息を飲む音が部屋に響いた。
「まさか、本当に『玉璽』なるものが存在するのか?」
「ある。だから今夜、俺は『玉璽』を奪いに行く。」


それは数日前に遡る。
戦況芳しくない状況で、呉の国主孫策はある男に使者を送った。
その男の名を、陸駿。
代々呉の国において、いやもしかすると呉という国が出来る前からこの地にあるのではないかと言われる程の、古い家系の一つ、陸家の当主である。
孫策は使者に簡潔な文を認めた手紙を持たせたのだ。
すなわち、

『玉璽』はあるか否や?

たったそれだけだった。
時節の挨拶も何も無い手紙だ。
礼節を重んじるこの国において、古い歴史を持つ陸家の当主に対して送る文面ではない。
だがそれでも孫策は陸家に手紙を送ったのだ。
彼なりの譲歩だとも言えよう。
そして使者はその日の内に当主の手紙を携えて戻ってきた。
そしてその文面も……

「己が目で確かめられよ。」

その一分のみ。

「どういう意味だ?」
その話を聞いて、青い軍服の男、周瑜公瑾は眉間の皺を更に深めた。
「俺を見定めるのだろうよ。玉璽に相応しいかそうでないか。」
恐らく、記録には残っていないだけで、どれだけの王達が玉璽を求め、陸家を訪ね、またある時は押し入ったのだろう。
そう言いながら孫策はどこか羨望の眼差しを虚空に向けていた。
あるともなしとも囁かれる、『玉璽』の姿を求めて……
そしてその眼差しが周瑜に向けられると、その瞳の奥に揺るがぬ意志の炎が灯ったのを、周瑜は確かに見た。
「だが俺は、見定められに行くのではない。見定め奪いに行く。」
「つまり、その『玉璽』が真実伝説の通りの物でであれば、必ず手に入れると?」
「そうだ。」
強い決意を瞳に宿し、その決意の表れと孫策は己の手で何も無い空を握りこむ。
「しかし、伝説の通りの玉璽かどうかなど……単なる印かもしれんぞ?」
周瑜の言うことはもっともで、『玉璽』に関する話は伝説や民話の類の域を脱していないのが現状だ。
その話を鵜呑みのように信じる孫策に、不安を持つのは仕方がないと言えよう。
だが周瑜の不安を消し去るように、孫策は「それでも構わぬ」と言った。
「それはそれでいいさ。だが、連綿と連なる古き血の家系、陸家がずっと守ってきたものだ。伝説通りでなくとも少しぐらい「力」があろうさ。」
「それは、呉の為か?」
「そうだ。今や呉の国は危機に瀕している。隣国の魏は着々とこの国を奪う準備を進めている。お前も知っていよう?先だって我同盟国の一つであった国が寝返った。」
その現実に、周瑜はただ沈黙で応えた。
「決定的な力が必要だ。この炎烈鎧をも凌ぐ、決定的な力が……」
そう言いながら、孫策は勢いよく椅子から立ち上がり、そのまま陸家を目指し部屋を出た。


繁華街から少し外れた小さな竹林。
そこに陸家はひっそりと存在していた。
そして孫策は兵を待機させ、自分はそのまま陸家当主から指定された堂へ足を踏み入れた。
「お待ち申しておりました。孫策様。」
一歩堂に入ると、幾百幾千の呪を施された蝋燭が灯り、堂の中は昼間のように明るく、その明かりの中で陸家当主である陸駿が、一人静かに孫策を迎えていた。
そして陸駿の隣、丁度堂の中心に位置するそこには、天井と床を繋ぐ不思議な螺旋を描く精緻な細工を施された鉄の檻があり、その檻の中には不思議な色を放ち浮かんでいる、「それ」があった。
「おお……ッ」
その姿を認め、孫策は思わず感嘆の声を上げる。
そして孫策が堂に入ると、件の『玉璽』がそれと分かるようにその光を強めた。
その『玉璽』の反応を見た陸駿は、僅かに溜息を漏らし、静かに語りだした。
「……どうやら、『玉璽』が認めたようですな。孫策様、貴方は『玉璽』の力を受ける『器』があるようですな。」
「ならばッ!」
「しかし……」
孫策が勇む足で陸駿に近づいた時、彼はきっぱりと孫策を遮るように『玉璽』の檻の前に立ちはだかった。
「これを貴方に渡すわけにはいきません。どうかお引き取りを。」
些か面喰った孫策ではあったが、当初の決意が揺らぐはずも無く、不適な笑みを浮かべ腰の剣をゆっくりと抜いた。
「引き返すわけにはいかぬ。」
孫策はその切っ先をぴたりと陸駿の喉元へ向けた。
「では、どうすると?」
その刃はさして陸駿に動揺も、恐怖すらも齎してはおらぬ様子で、ただ静かな応えを返しただけだった。
暫し沈黙が場を支配し、だが痛いほどの緊張が互いの肌に突き刺さる。
そしてその沈黙を破ったのは孫策の問いだった。
「逆に問おう。端から渡す気が無いのならば、何故あのような手紙を我によこした。」
「……」
「何故、我をこの場に誘い入れた?」
「……」
孫策の問いに、陸駿はただ沈黙で応える。
「……無言か?どうやら覚悟ができているようだ。その心意気は誉めてやろう。」
そう言って、迷わぬ刃は陸駿の頭上に掲げられ、躊躇わぬ凶刃はそのまま振り下ろされる。
そして、己の命を奪う凶刃が陸駿の目の前に迫った時、彼はただ一言小さく呟いた。
「伯言……」
生々しい音と、飛び散る血潮が床に、壁に飛び散る水音が響き、尚も噴き出す陸駿の血が僅かに『玉璽』にかかった。
瞬間、呪を施された蝋燭が一気に燃え上がり、堂を炎で包み込んだ。
「ちちうえーーーーッ!!」
陸駿が床に倒れる音と同時に、悲痛な陸遜の声が堂に木霊した。



孫策は麗らかな日の光が射す執務室で目覚めた。
どうやらここで転寝をしていたようだ。
そしてつい先日の事を夢見ていた。
つい先日といっても一年ほど前の出来事。
孫策自らが引き起こした惨劇と、そして未だ続く疑問が降り注ぐあの夢。
ふと執務室の窓から庭を見れば、弟の孫権と、そして件の夢の主の息子である陸遜が穏やかに花を摘んでいた。
そして近くにはこの呉国の大都督である周瑜が、普段では滅多にお目にかかれぬ笑顔で二人を静かに見守っていた。
陸家から玉璽を奪ったあの日、その当主に頼まれ息子である陸遜を引き取った。
結局は後見人に周瑜が名乗りを上げて、今は周瑜の屋敷で日々成長している。
「いや、周瑜もまた成長をしているのかもしれぬな……。」
誰とも無しに呟いた言葉は、虚空に消える。
周瑜もまた、陸遜を引き取ってから何かが変わり始めている。
それはいい意味でも、悪い意味でも……。
「陸駿、お前の狙いは、一体何なのだ?」
それは、あの日から続く疑問。
何故、陸駿は自分を屋敷に招きいれ、そして秘宝たる『玉璽』を見せたのか?
そんなものはただの絵空事と言い切ってしまえば、少なくとも最初の手紙にはそれぐらいの抵抗を見せてもいいのでは無いか?
何故、自分が訪れる前に、『玉璽』を持って逃走しなかったのか?
息子の陸遜と『玉璽』を持って野に下れば、そうそう探し出せるものではない。
『玉璽』自体は掌に収まるほど小さい。
孫策は書状という形で、わざとそれぐらいの時間を陸駿に与えていたのだ。
それとも動かせぬ理由があったのだろうか?
そして最大の疑問。
何故、陸駿は簒奪者たる自分に息子を託したのか?
無論、逃げおおせないと覚悟を決めたのであれば、陸家の血脈を受け継ぐ息子はどこか遠くの親戚なり友人なりに預けても良かったのではないか?
少なくとも、孫策ならばせめて呉国からは脱出させただろう。
それが肉親の心情というものだ。
「わざとか?」
孫策は無意識の内に呟いた。

あの日の出来事を、孫策は詳しく誰にも話してはいない。
それは親友であり義兄弟でもある周瑜にでさえ。
だからこれは孫策一人の内にひっそりと、しかし根強く植えられた疑問だった。
「陸駿、息子を使って、我を試したのか?」
陸家の子供と知って、自分が陸遜を切り捨てれば『玉璽』に相応しくないと、判断するつもりだったのか?
だとすれば、何と残酷な仕打ちであることか。
そして……
「何故、玉璽は未だに目覚めない……。」
そう、あの日から玉璽は沈黙したままただ怪しげな緑の光を宿すだけのもの。
念のため城の奥深くに封印し、保管してある。
そして偶然なのか、あの日以来呉国の戦況は一定の安定を見た。
悪化の一途を辿ると思われた戦況は、新たな国の出現で拮抗したのだ。
その国は新興国であるにも関わらず、呉国の戦力とほぼ同等になりつつある。
その名を蜀。
得た情報によるとその国の軍師である諸葛亮孔明なる人物が、その力の中心となっているようだ。
それに乗じ、呉国も戦力を増強し何とか三国拮抗の状態を作りだした。
「運がいいのか、悪いのか……」
おかげで『玉璽』を使うまでには至らず、目覚めぬ玉璽であっても敵を退ける噂ぐらいにはなっている。
これで暫くは、魏国が呉と蜀、二つの国と戦えるだけの軍備と資金を整えられるまでの間、恐らくは数年間という短い時間ではあるが、時が稼げた。
(それまでに、蜀と同盟を結ぶか、あるいは『玉璽』が目覚めれば……)

『玉璽』が目覚めれば……

その考えに至った時、不意に陸遜がこちらを見て孫策と目が合った。
陸遜は僅かに動揺の色を見せたが、視線を彷徨わせながら、結局孫策に小さく頭を下げた。

今でも思う。
疑問の連鎖。
玉璽を調べようにも今の技術力では調べようもなく、何かしらの文献を探そうとも、陸家本邸には一冊もなく、どうやら燃えたあの堂の中に全て収まっていたようだ。
だが、それを……
「陸駿は、燃やした。」
そう、孫策は玉璽を簒奪する計画はしていたが、少なくとも玉璽に関しての情報が欲しいがために火を放つなど端から考えてはいなかったのだ。
蝋燭に施された何かしらの呪が、陸駿の死に呼応するかのように堂を燃やしつくしたのだ。
ごく一部の臣下から、陸遜に問いただしてみよという声もあった。
だが、恐らく彼は何も知らないだろうと孫策は確信していた。
そして何よりも……

あの炎の中で、父親の死を目撃し、さらにその仇である孫策の臣下に下った陸遜の眼。
どこまでも深遠で、ただ深い悲しみに流され沈む瞳。
あんな眼を、二度と陸遜にはさせたくなかったのだ。
「どうやら、俺も何かが変わってきているようだ……。」
自身の心境の変化に、孫策は自虐気味に笑った。

異聞冒頭