鋼鉄異聞 外伝2

「えっ?アニキはまだ周瑜様と一緒に寝てるのか?」
ぶふーーーッっと、見事な弧を描いて凌操の飲んでいた茶が空に虹を描く。
ここは呉軍禁軍に籍を置く将軍が一人、凌操公訣の屋敷。
穏やかな日差しが差し込む、午後のひと時の出来事だった……。

(いやいやいやいや、待て待て待て、あの周瑜殿に限ってそんな事は……いやしかし、衆道に通じておられても……いやいや待て待て待て……)
等と、凌操が悶々と思い悩んでいる間にも、彼が噴出した茶は側に居た女官達が慣れた手付きで片付けられ、すかさず新しい茶が凌操の前に差し出されていた。
そんな父の心中等知らぬ一人息子の凌統は、無邪気にアニキと慕う陸遜と話を続けていた。
「えっと……やっぱ、変、だよね……。」
凌統に驚かれた陸遜は、少し気落ちした顔をしてしまう。
そんな陸遜の顔を見た凌統は、慌てて首を振り言い繕う。
「へ、変じゃねえよッ!変じゃねえけど……俺達ぐらいの年になったら一人で寝るのは当たり前だろ。ちなみに俺はもう一人で寝てるぜッ!ですよね父上ッ!!」
唐突に話を振られた凌操は、固まっていた身体をびくりとさせた。
「あ?ああ……そういう意味か……。あ、まあ、そうだな……」
(そうだよな……いくら何でもあの周瑜殿に限って……)
と、凌操は勘違いしてしまった自分を恥じた。




「やっぱり、変、でしょうか?」
凌操の動揺を知らず、陸遜はおずおずと彼に尋ねた。
「あ?い、いや……変というか……。何故周瑜殿と一緒に、ね……」
その先を続けようとして凌操は思わず咳払いをする。
「その、何故一緒に寝ておられるのかな?」
凌操が理由を尋ねると、陸遜は少し恥ずかしげに俯きながらも、ぽつぽつと話始めた。
「そ、その……夜怖い夢を見て、とんでもない失敗をしてしまい、眠れなくなってしまったのです。それで、周瑜様が人肌があれば存外に眠れるのだと、そう仰ってくださって、それ以来寝台を共にしております。」
「成る程……」
聞いてみればそれなりの訳がありそうだが……
「でもアニキ、いつまでもって訳には、いかないだろ?」
母を亡くした時の事を思い出したのだろう。
凌統は少しだけ悲しそうな顔をした。
思えば、凌統も母が死んでからは暫く凌操の寝台に潜り込んでいたものだった。
そして凌統の言葉に、陸遜ははっとする。
(そうだ。いつまでもって訳にはいかないんだ……)
「陸遜殿、怖い夢は、今も見られているのか?」
そんな陸遜を見て、凌操がひどく真面目な声音で訊ねてきた。
「いえ、今はもう……時折みるぐらいで、以前のようにうなされる事も無くなりました。」
「ならば、良い潮時ではないかな?」
これがいい切欠になればいいと、凌操は言葉を選びながら陸遜に訊ねた。
「そう、そうですよね。確かにこれ以上周瑜様にご迷惑をおかけする訳にはまりませんよね。」
陸遜の少し悲しげな笑みに凌操は胸が少しだけ痛んだが、これからの陸遜が歩むであろう険しい道を思えば、夢一つを恐れている場合では無いことを、凌操はそれとなく口にする。
「迷惑かどうかは、周瑜殿の心の内のこと、私では分からぬが……これから陸遜殿は強くならねばならぬ。」
「はい。」
凌操の言外の意味を陸遜は感じ、強く決意するように頷いた。
「今回の事はその第一歩。いい切欠になるのではあるまいかな?」
「はい、今夜にでも周瑜様に話してみます。ありがとうございます、凌操様。」
「いや……。それとな陸遜殿。」
「はい?」
「断言は出来ぬが、周瑜殿は決して迷惑とは思っておらぬと私は思うよ。」
凌操の優しい心遣いに、陸遜は深々と頭を下げた。
「ありがとう、ございます。」
「アニキ大丈夫だぞ!もし怖い夢見て眠れなかったら、俺が一緒に寝てやるよ!何だったら今日泊まっていってよッ!一緒に寝ようぜッ!!」
凌統の言葉に、凌操はニヤリと笑った。
「そんな強気な事を言って良いのか?深夜一人で厠に行けぬと、女官に付いて行って貰っている事、この父が知らぬ訳がないだろう?」
父の言葉に凌操は顔を真っ赤にして慌て始めた。
「ち、父上ッ!どうしてそれをッ!?つうかこんな時に言わなくてもッ!!」
「ははッ!」
「アニキ笑わないでくれよーーーッ!!」
そんな様子を、給仕していた女官の一人が微笑みながら眺めていた。




部屋の中は未だ明かりも点らず、街中に位置するこの屋敷の中とて、ぬばたまの闇が広がっていた。
燕准が部屋を訪れた時も、主は明かりを灯さずただじっと椅子に座っていたのだ。
「周瑜様、如何なされましたか?灯かりも点さず……」
そう言いながら燕准は部屋の灯火台に火を点した。
灯かりが点り、部屋の中が照らされても周瑜は先ほどと変わらず椅子に座したまま、微動だにしなかった。
「周瑜様、何か気掛かりな事でも?」
なおも燕准が問うと、周瑜は大きく息を吐いた。
「もしや、陸遜様の事でしょうか?」
燕准がさらりと周瑜の的を言い当てたらしく、周瑜はちらりと燕准を見、そしてバツが悪そうに再び顔を逸らした。
「良い傾向ではございませんか。遅かれ早かれこういう日が来るのですよ。それが今日というだけの事……」
動かぬ主の為に、燕准は香り良い茶を入れながら、夕餉の時に陸遜が言った言葉を思い出した。
(周瑜様、私は今日から、一人で寝てみようと思います。)
何かしらの決意を宿した、強い瞳だった。
「一人前になろうとする、男子の目でございましたね。」
「そうだな、いつまでも過去を恐れていては駄目だと、あれなりに考えたのだろう。」
周瑜は燕准の言葉を受けてようやく口を開いた。
「では何故そのようにいじけておいでか?」
「……いじけてなど、おらん。」
そっぽを向いた周瑜の前に、燕准は茶を差し出した。
「では、何とされましたか?」
周瑜が見上げれば、意地の悪い笑みを浮かべた燕准の顔があり、周瑜はとうとう降参した。
「いじけているのではない。ただ、少し淋しいと思っただけだ。」
「左様でございましたか。」
さしたる反応も示さない燕准の態度に、周瑜は逆に強張っていた気持ちが和らぎ、身体の力も抜け椅子の背に身を預けながらその複雑な心境を語り始めた。
「不可解な気持ちだ……陸遜の成長が喜ばしいと思う一方、どうしても淋しいと気持ちが湧いて来る。」
「それはごく当たり前の気持ちかと存じますよ。」
一通りの給仕を終え、部屋を退出しようとしていた燕准がぽつりと呟いた。
「私も、幼い周瑜様が私の寝台に潜り込まなくなった時、周瑜様と同じ心持でしたよ。」
そう言って静かに部屋を退出した燕准の背中を、周瑜はどこか遠いモノを見るような眼差しで見送った。




さらりとした布地は思いのほか冷たく、撫でる指先から体温を奪っていくような錯覚に陥りそうになる。
上掛けの布団を捲り、そっと寝台に潜り込んではみたが、そこにあるのは当たり前であるが、己一人の体温。
心細さはある。
眠ればあの夢がまた己を苛むという、恐怖もある。
だが……
不思議と陸遜はいずれは眠れるだろうという、どこか確信めいた静かさが己の中にあると分かっていた。
ああ、私はもう、周瑜様の暖かさが無くとも眠れるのだ。
あの頃に比べれば、自分はどうやら大人に近づいたのだと、その時唐突に思った。
そして、陸遜は子供の自分に別れを告げるべく、大きく息を吐くと、瞳を閉じた。