「趙雲殿、頼みがあるのですが」
 よく晴れた昼下がりだった。
 殿が苦労の末に念願の益州を手に入れてひと月が過ぎようとしている。城内も城下も、ようやく落ち着きを取り戻しつつあるようだった。
「は、なんなりとお申し付けください、軍師殿」
 孔明殿は考えをまとめるように手に持った白い羽の扇を整えていた。ふつうの者が見たらよほど難問を言い出されるかとおもうだろう。しかしこの方とは付き合いの長い私には、言い出されることがなんとなく、私事に近い用件であるような予感がした。
 果たして、その通りだった。
「この酒を、ある処に届けていただきたいのですが」
「酒を、ですか。わかりました」
「そのように簡単に、引き受けてしまって良いのですか?」
「私の知る限り軍師殿はご命令であろうと頼みごとだろうと、無駄なことはなさらない。だからこの件も、なにか仔細があるのでしょう」
「・・・・・・」
 かざした羽扇の影で、孔明殿は含み笑いしたようだった。
「仔細があるといえばある、無いといえば無いのですが・・・」
 この方の声は独特で、甘いのか冷たいのか、分かりかねる。
「軍師殿」
 口調をあらためた。私は武人だ。思わせぶりな態度で示されても、何も察せられない。
「仔細があるならお聞きします。明かせぬというなら、ただその酒を届けて置いてきましょう。私は武人ですから、言われたとおりにいたしますが」


「子龍、これは私の発案なのだ」
 室にいるのは孔明殿と私のふたりきりだと思っていたが、会話に加わったのは誰あろう殿である。いささか驚いたがひとまず拱手をし、殿に向かって問うた。
「発案、と言われますと、殿?」
「ぅうむ・・・実はな子龍、ある武将のもとに酒を持っていって、ついでに一杯酌み交わしてきてもらいたいのだ」
「は、・・・」
「そのとおりなのですよ、趙雲殿。ある武将が我が軍に加わってからもうだいぶん経つというのに、一向に我が軍に馴染もうと致しません。困ったことで・・・」
「そうなのだ、子龍。これは困ったことなのだ」
「は、あ――」
「まったくあの方は孤高というか」
「まったくだな、孔明」
「殿はよろしいではないですか。まだ世間話もいたしましょう?私など、どうですかこの地で妻を娶られたら、と申し上げたところ射殺されそうな眼差しで睨まれてしまいました。早計ではあったとおもいますが・・・」
「そりゃあ早計だぞ、孔明。あれの傷は深い。そういうことはもっとそっとさりげなく進めないといけない」
「そうそう、さりげなく進めて本人が断れないところまで追い詰めてから披露するのが得策だと思いますけど・・・私としたことがつい。あの方がどんな顔をなさるのか見たくって」
「はは、気持ちは分かる。あれときたらまったく常に仏頂面だ。それすら兜に隠れてよく見えぬときているのだものな」
「それですよ。あれほどのご容貌。笑まれでもしたらさぞかし―――とおもいますのに、ね・・」
「あれが笑う?想像つかんな、いくら私でも」
「殿でもそうなのですか?実のところ私も」


「殿。軍師殿」
「はい?」「おう、なんだ?」
 なんと息の合っていることか。おふたりは同時に振り向いた。
「話が弾んでいるところ申し訳ありませんが、私は軍務がありますので。ご命令なりをいただきたいのですが」
「命令などいたしませんよ。頼みごとだと最初に申し上げましたでしょう?」と孔明殿。
「そうだぞ。命令であるものか。強いていうならば願望というものだ」と、殿。
「願望・・・いい言葉です、殿。まさしくその通りです」
「子龍があれと仲良くなってくれれば、これに越す上策はない」
「そうですとも。趙雲殿が彼と親しくなれば、それに越したことはありません」

 私はそろそろ困惑しはじめた。
「酒を届けるというのはつまりその武将とやらの所で、つまり私がその方と酒を酌み交わして親しくなればよいということですか」
「そうです」「その通りだ」
 おふたりは、同時に言った。
「親しくなるというのは保証できませんが、酒は届けます。で、どちらに」
 殿の蜀入りと前後して劉備軍に加わった将というのは何人もいる。政治工作に功のあった法正殿、古豪の将である李厳殿をはじめ、―――
「・・・・・・・・・」
「―――――」
 殿と軍師殿は目配せを交し合った。まるで、お前が言え、いや殿が、と互いに譲り合う・・というより、押し付けあっているようだ。
「殿、軍師殿」
 目上の方に向かって失礼であるが、これ以上付き合っていられない気分だった。事実、軍務につかなければならない時刻が迫っている。
 殿と、軍師殿はまた目線を交し合った。おふたりは同時に頷き、私のほうに向き直った。
「馬超だ」「馬超殿です」


 そのときの私の心境をどう表現したらいいだろう。
「・・・馬超殿。馬超殿って、あの馬超殿ですか」
 私はかろうじて言った。実のところ息が止まりそうだった。いや事実止まっていた。息が止まったせいで、心の臓がいやにばくばくと脈打った。
「無理です」
 なにかが胸をせり上がってくる。あたたかくもあり、熱くもあるものだ。激しくもある。
 私の血管がもし少しばかり細ければ、間違いなく脳で血が詰まって破れている。ともかく、それくらいの動揺だった。 
「無理です。馬超殿のところに酒を届けて一緒に飲んで親しくなるなんて。絶対に無理です」
「何をいう、子龍。お前しかおらぬのだ!」
「何をいうんですか、趙雲殿。あたなたしかおりません!」
「無理です」
 無理だ。どう考えても無理だ。考えなくとも無理だ。
 だって、私は。



 何度無理だと言っただろう。
 しかし何故か私は日暮れの道を、酒壷をかかえて歩いていた。酒壷は、立派なものだった。
 私があのおふたりに、敵うわけがない。


『馬超が我が軍になじもうとせぬので困っているのだ。子龍、おまえは馬超と年も近い、なにかきっかけでも作って、親しくしてくれぬか』
『そうですよ、一度共に酒でも飲むのが良いでしょう』

 ・・・・無理ですよ、殿。軍師殿。
 だって、私はあの人を――――
 








50題―2.敵わない人...2007.10.27
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