愛しい人に寄りかかられるというのは、なんとも表現しがたい幸せだということをはじめて知った。
 自慢ではないが、この歳になるまで恋愛というものをしたことがない。
 私にもちかけられる縁談は、実のところ多い。まだ劉備軍が弱小であったころ、――事実上流浪していたといっても良い頃――はさほどではなかったのだが、孔明殿を陣営に招き入れ荊州に落ち着いたころからだんだんと増え始めた。やはり所帯を持つということは定住するということと結びつくのだろう。
 天府の地と謳われる蜀を得てからは、いっそう増えた。降るような、とよく言うが、降るどころではなく雪崩れを起こしそうな勢いだ。
 それに殿や他の文官武官の方々を通して持ち込まれる正式のものだけでなく、城務めの女官などからの誘いもなぜか目につくようになった。蜀を得て地盤が安定し、殿から恩賞をいただき地位も上げていただいたせいだろう。有り難いことではあるが、困ったことでもある。
 べつに私は女嫌いであるとか、絶対に妻を娶らないという思想の持ち主というわけじゃない。
 ただ殿を一国一城のあるじとすることがなによりも優先事項であったし、蜀を得て成都城の主となられた我が君には次に殿が理想とする国を造るという大望がおありになる。魏や呉の動向も気になる。
 それに―――これという出会いがない、というのも私が結婚をしない大きな理由だ。私はこれまで決まった女人と付き合ったことはないし、そもそも惹かれた覚えがない。
 幼いといってもよい年齢で郷里を出たのだがが、里で婆から聞いた話のなかで、なんとなく心に残っているのがひとつある。
 曰く、この世には目に見えぬ運命の赤い糸というものがあって、生まれた時から運命の人と結ばれているというのだ。
 目に見えぬというが、なにしろ運命の赤い糸だ。その人と出会えば、きっとひと目で分かるに違いない。
 誰にも言ったことはないが、私はずっとそう思ってきた。
 劉備様に出会ったときは、この人こそ、と思った。直感だった。間違っていたとは思わないが、赤い糸というのは情愛を含む関係・・・・らしい。
 劉備様には我が忠心を捧げているが、伴侶とか情愛とかいうのはおこがましい。それに劉備様のときは身近に置いていただいて、そのお人柄をお慕いするようになったのである。ひと目で胸が痛くなったというようなこともなかった。


 その人と出合ってしまったときは、ひと目で胸を打ち抜かれるような衝撃があったものだ。
 彼はただ立っていたというだけであるが、まずその立ち姿というのが常人とは遥かかけ離れていた。私には彼が長身から微細な光の粒でも撒き散らしているように見えたのだ。
 錦と呼ばれているというのは知識として知っていた。
 錦はしかしぼろぼろに疲れ切っていた。あと一歩というところまで仇敵を追い詰めながら、離間の計という我ら武人からすれば卑劣極まりない詐略によって撤退したあとの彼は、敗戦につぐ敗戦、裏切りにつぐ裏切り、幾多の同胞との別れを経て、我が殿の前に膝をついた。付き従うものも僅かだった。
 しかし、彼の纏うすべては疲れきり擦り減っていても、彼自身の光は消えていなかった。これは武人だということはひと目で分かった。私のように主に仕えて戦う武人とはひどく異なる次元で戦い続けてきた漢だと思った。
 目にしただけで心が昂ぶり、彼の為に戦いたいと兵に思わせることの出来る人種。それが将のなかの将であると思っている。やさしげな顔をされていても劉備様はまさしくそうだ。彼も同じだ。
 風と砂が支配するという涼州の最強の武人にして乱の盟主。 
 まさに風と砂が人のかたちを取ったような人だと感じた。涼州の苛烈な陽光が降り注ぐ砂だ。その砂を風が舞い上げ、彼を取りまいているのだ。だから彼は光の粒を纏っているように見える。
 汚れた兜から覗く峻烈な眼光も、あたりを払う凄絶な立ち姿も。全てが異質であり、異彩だった。
 胸が苦しくなった。痛いほどだった。
 それでいて目が離せなかった。
 恋であると気づいたのは、それからだいぶ経ってからだった。


 
 私は試みに彼の手を持ち上げてみた。
 微睡みの中にいる彼の目を覚まさせてはならぬので、慎重に。
 自在に馬を操り槍を振るう手だ、固く強張っているが、存外にかたちが良い。生まれが良いというのはこんなところにも出るのか・・・
 しまった、と気づいた。
 私が手に取ったのは彼の右手だった。
 運命の赤い糸は、左手の小指に絡まっているのだそうだ。なぜ左手なのかと問うた私に対して、左の手は心臓に繋がっているからと婆が答えたのを、おぼろげながら覚えている。
 目に見えぬというが、もし見えたらどうしようとどきどきした。
 彼は私の右肩に寄りかかっているから、左手のほうが取りづらい。私は慎重に身体をすこし動かして隙間をつくり、そっと彼の左手を取った。
 利き手ではないせいだろう、左手は右手よりすこし繊細である気がした。
 一見すると赤い糸が見えなかった。見えないがある筈なのだ。もっとよく見ようと目を凝らした時だった。

「―――何故、貴様がいる」
 地を這うような低音。さきほどまでは閉じていた瞼が開いて、眸が炯々と危険なひかりを帯びている。
 まずい。
 非常に、まずい。
「秋も深まろうかというこの時分に野外でうたたねなんてしてたら、風邪を引くとおもったんだ」
 用意していたわけでもないのにすらすら言えたのは、事実であるからだろう。
 朝晩は勿論、昼間でもけっこう冷える。このような木陰だと尚更だ。
「ほう・・・・・」
 彼は片方の肩にかかった青い衣に目をやった。いうまでもなく私の上着だ。 
 なぜ片方だけかというと、もう片方の肩は私と触れ合っていて、たとえ衣一枚といえども彼との隔たりが多いのは嫌だとおもったからだ。
「手を握ってしげしげ眺めていた理由は、なんだ」
「あ」
 悪いことに、私はまだ彼の手を握っていた。
「これは、その」
 どうしようか。
 運命の糸の話をしたら、彼は怒るだろうか。
 怒るだろうな、きっと。
 いや、しかし。
 もしかしたら、彼も感銘を受けるかもしれない。
 だとしたら、思い切って打ち明けてみる価値はあるかもしれない。
「実は、馬超殿」
「・・・言っておくが、心しておけ。くだらぬことを抜かすと只ではおかん」
「下らないことじゃない。重要なことなんだ。この世には運命の赤い――――」
   








50題―3.微睡みの中で...2007.10.29
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