手紙は嫌いだ。
 嫌いなどという言葉では言い表せぬ。
 憎しみ、悔しさ、惜しさ、悲しさ―――雑多なものがこみ上げて胸苦しく、狂おしく、この世の全てを破壊したくなる。もっとも壊したくなるのは、自身だ。俺はおれ自身を壊したい。許してはおけぬ愚かさを露呈したこの身を八つ裂きにしてやりたいと胸を掻きむしる。が、すべてはもう遅い。とりかえせるものなぞ何一つ無い。

 潼関は夜だった。
 夜なのに砦からみた空はうす明るかった。地をみると、うす暗かった。
 夕刻、韓遂が曹操と語らっていると報が入った。
 皆、まさか信じられぬと口では言ったが、内心で或いはという空気があった。韓遂の行動には逐一裏があるというのが涼州八旗はどこかで思っていたからだ。韓遂はうまく人を立てながら、裏で自分が実権を握るというようなことが多かった。
 不信と緊張、苛立ちがひそかに広がる陣中に、曹操からの使者が着いたのは夜半のことだ。人が生きる時ではなく、魔物の蠢く時刻だったのかもしれぬ。
 使者が俺の会おうとはせず韓遂の幕舎に向かったと聞いた瞬間、寝もやらず合議を行っていた涼州八旗は色を失い、俺は胡床を蹴倒して駆け出していた。合議に韓遂が欠席していたのは、それすら詐略であったのか、単に不運な偶然であったのか。 
 曹操の使者は面の皮の厚い小者だった。俺の顔を見てうすら笑った。 
 俺は剣を抜いた。剣は、父から譲られたものだった。
「待たれい!斬ってはなりませんぞ!」
 涼州きっての老英傑にふさわしい腹の底から響く胴間声は、尚更俺を逆上させた。 
「何故だ、韓遂殿。敵ではないか」
「敵なれども使者を斬るなぞ、義に反しましょうぞ!」
 あの老賊の口から義などという言葉が出ようとは笑わせられる。しかし、それは正論でもあった。
 抜かれた白刃の青白さに気圧されたように顔色を変えた使者は慄きながら消え、俺の怒りの矛先は只一人に向かった。
 卓に、書簡があった。
 見るつもりなぞ無かったのに見てしまったのは、異様であったからだ。
 ところどころが塗りつぶされていた。
 肝心なところばかりが黒々と墨で塗りこめられていた。まるで、嘲笑うかのように。剣を、振り上げた。
 老いたりといえども涼州に覇を競った豪勇、とっさに応戦しようと奴はかたわらの剣を取った。しかし、それは鞘から抜かれることは無かったのだ。
 奴は、俺の剣を見てはっとしたように動きを留めた。
「その剣、寿成の―――」
 その時にはもう父の剣は啼き声のような唸りを発して、韓遂の、左腕を斬り落としていた。






 外に出た。夜闇が全てを押し潰していた。
 剣を抜いた。あの夜、韓遂の片腕を飛ばして以来、いちども使っていない。
 俺はあの男の血で、父と馬家の誇りである剣を、穢したのだろうか、雪いだのだろうか。あの男が真実俺と涼州を裏切っていたのならば、韓遂を斬ったのは誉れであろう。もし、あの茶番が一から十まで曹賊の謀略であったなら―――俺はとんでもない愚か者だ。 
 裏切りが事実であったのかそうでなかったのか。
 もう分からない。もう、永遠に分からない。
 そして、もうひとつの真実。俺はあの男を信じられなかった。信じ切れなかった。それも愚かだ。
 いまは、おもう。
 愚かなまでに信じればよかったのだ。韓遂のことを。涼州に集った盟友のことを。あと、もうひとり。・・・・・ホウ徳殿のことを。
 俺は、愚直な信を貫くべきだったのだ。愚かな誠を貫いて果て、西涼の砂に還れば良かったのだ。

 雨が、降りだした。
 闇を切り裂いて銀糸がたゆまず落ちていた。
 どうしてだろうか、泣きたい、という気になった。
 涙は出てこなかった。
 かわりに夜が泣いているようだった。  
 
「―――・・・・馬超!!」 

 振り向かなかった。
 どうしてこの男は、こんなときに来るのか。こんなときに限ってくるのか。
 すこし考えて、思い当たった。
 この男は、こんなときばかり来るのではない。
 調練中でも、軍務の最中でも、軍議の合間にでも、抜け出して木陰で眠っているときでさえ。
 気がつくと、この男は俺の隣に居るのだ。








50題―4.手紙...2007.10.31
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