そのまま雨に打たれていれば大地に溶け込めるかと馬鹿な幻想を抱きもしたが、結局の所そんなわけにはいかないのだ。立ち上げるそぶりを見せると趙雲も身を起こし、どちらからともなく、とぼとぼ歩き出した。 青龍のごときと称される武人に相応しい蒼銀の具足は濡れて曇り。ましてや俺の薄い部屋着など見る影もない。かたや長坂の英雄と讃えられる猛将で、かたや涼州の錦といわれた俺。名を名乗るだけで敵兵を震え上がらせるに充分な武人がふたりして雨に打たれ、その上泥まみれ。そして長坂の英雄殿は、俺の手をしっかり握っているときている。 俺は何故こやつに手を引かれるなどという児戯に甘んじているのか。そも、泥中に突き倒されたときに、何故逆上しなかったのか。 ・・・・よく分からぬ。 ただ、激昂が去ったあとの胸中にはぽかりと空隙が生じたようで、なにがしかの感情を起こすことはひどく億劫だった。 俺のほうの私室のほうが近かったのだが、向かった先は趙雲の部屋だった。そこが趙雲の室かどうか俺が知るはずもないが、趙雲が迷いなく入っていったから、そうなのだろう。 部屋は無人で、暗かった。 趙雲はすたすたと歩を進めたが、俺はなにも見えず戸口でぼうっと立ちどまった。すると、部屋の中で小さな明かりが灯った。 それは徐々に大きくなった。火を点ずれば明るくなる。明かりを灯せばあたりが見える。当たり前の事象が、どうしてだかひどく不可思議な光景に思えた。趙雲の容貌を徐々に浮かんだ。容貌は真摯に、明かりを見詰めていた。まるで見ていなければ明かりが消えてしまうとでもいうよだった。灯りは照らす範囲をすこしずつ拡大して、俺の目にも、部屋のありようが少しずつ見えた。物のあまりない、簡素な室だ。灯った明かりがもはやはかなく消えることのないほど大きくなったとき、趙雲はやっとこちらを向いた。 入るようにうながされたが、あまり入りたくないような気分だった。 「馬超・・・」 困ったように趙雲がつぶやく。俺は一瞬眉を寄せたが、ひとつ息をついて、その室に足を踏み入れた。 「その剣、預かろう。私が触っても良いのならば、だけど」 趙雲が真っ先に言い出したのは、俺が抜き身のまま持っていた剣のことだ。 父の形見といっても家宝だとか宝剣というものではない。実用一点張りの、飾り気のない無骨な剣だ。だが俺は何故か、この剣は誰かに触らせたことはない。 清廉な白い布を手に、趙雲がこちらを見ている。 無言のままで剣を渡すと、趙雲は神妙な顔つきで、まるで赤子を受け取るように白刃を抱き、いとも丁重に雨滴を拭った。 端正極まりない容貌にはその刃がかすめた紅痕がはしり、いまだ雨滴とともににじむ赤が、俺の中の何かを締め付けた。 「次は私たちの番だな」 拭ったのとは別の布で剣をくるんで丁寧に卓の上に置き、趙雲は微笑した。 「ともかく身体を乾かさなければ」 見事な黒瞳が、細められる。善意しか無いような眼差しを向けられるのは、居心地が悪かった。 「狭いな」 「え」 趙雲が目を丸くするので、失言だったと息を吐いた。しかし、ほんとうに俺の私室と比べたら狭く、調度も質素だ。官位はともかく、将としての格はさほど変わらぬのに。 俺が言わんとしていることを察したらしい、乾いた布を手渡しながら、趙雲は真顔で言った。 「私の室がとくに狭いわけじゃない。貴殿の室が特別に広いんだ。殿がとくにそう命じたから」 「なに?」 今度は俺が目を見開いた。 蜀入りして成都の北に駐屯していた俺は、成都攻略後はすぐ城内に私室をあたえられた。城への案内は諸葛軍師がかってでた。入城した直後だというのに軍師の脳内には城内の正確な地図が記録されているらしく、城壁から露台から兵舎や厩舎まですみずみ案内された。途中で劉備殿と会い、今度は城の奥深くの後宮までを案内された。無論、そこは無人であったが、 『こんなものを俺に見せていいのか?』 主君の背について歩きながら諸葛軍師に対して思わずそう言ったのは、驚いたからだ。 劉備軍から見ると俺は降将で、敗残の将だ。そういう立場の武将は手負いの獣と同じで、そうたやすく信頼されるものではない。すくなくとも、新しい城の深部などをわざわざ案内することは無い。それも主君と軍師が打ち揃ってまで。 『貴方はもう仲間ですからね。なにを見せたって良いと考えておられるのでは?』 諸葛軍師は小声で言ったのだが、主君は振り向いた。 『そのとおりだ、馬超。お前はもう仲間だからな。なにを見せてもいい』 仲間、という言葉は、どこか不快だった。ひどく居心地が悪く、俺は目に険を刷いたのだ。 『俺が裏切るとは、考えないのか』 『考えんな』『考えませんね』 主君と軍師は同時に言った。すこし面食らった。まったく似ていないのに、この主従は息が合うらしい。 『だってお前は私の仲間になると言っただろう』 『そうです、殿をお味方すると言いました』 『お前が誓いを破る男だとは私は思わない』 『私も思いません』 『だから、お前は裏切らない。違うか、馬超』 『だから貴方は裏切りませんよ。違いますか、馬超殿』 黒々とした劉備殿の目と、諸葛軍師の切れ長の黒眸は、白刃のごとき潔く揺るぎが無かった。 両方に真正面から直視された俺は、目を逸らすことこそなかったが、何も、返答をしなかった。 城内の案内の最後に私室を与えられたのだ。 とくに広いとも豪華だともおもわなかった。『気に入りましたか』と、軍師に聞かれた。俺はそのときも、なにも応えなかった気がする。 「・・・なにも、分かってはいなかったのだな、俺は」 趙雲から渡された布で頭をぬぐいながら、大きく息を吐いた。髪はとうてい乾かぬが、顔が濡れているのが不快であったので、それを拭うとずいぶんと人心地が戻った。濡れそぼった着物が疎ましいが、湿った帯がうまく解けぬ。 「私室が特別に広いことも知らなかった。それに、あの時、劉備殿も諸葛軍師も蜀入りした直後で死ぬほど多忙であったろうに。わざわざふたりして俺の案内をかってでた、その厚意も、今の今まで気づかなかった」 言いながら苦労して結び目をゆるめて帯を抜くと、唖然とした趙雲と目が合った。 「ぬ――――脱がないでください・・・っ!」 「なぜ?」 今度は俺は唖然とした。雨に濡れた衣服をそのまま着ていろというのか。身体を乾かすというが、これほどまで濡れておまけに泥つきのものを纏っていたのでは、とうてい乾くはずがない。 「脱いではいけない。いや脱ぐしかない・・のだが―――待て、いま着替えを。着替え、そうだ着替えだな。ええと、どこにあったか。ちょ・・待て、そうなると、貴殿が私の衣服を着るのか!?」 あまり趙雲が愕然とした表情をするので、俺は肩をすくめた。 「迷惑ならば、俺は戻るが」 「!!」 趙雲が絶句した。この世の終わりかとでもいうような表情で見る。 「俺に、どうしろと?」 「落ち着け」 意味不明のこの発言は、俺に言ったのではなく自らに言い聞かせるものだったらしい。趙雲はそのひと言で本当に落ち着いたらしく、一度深呼吸をすると(なぜ深呼吸なのだ)、「先ずは着替えだな。そのあとで酒・・でも飲もう。体が温まるだろうし」と言いながら戸棚を開けて着替えを引っ張り出し、酒の支度をしてくるといって出て行った。 酒を酌み交わすというに奴が妙に気を張った態度で望んだせいで、会話ははずまなかった。ましてや、襟をくつろげようとすると、血相を変えて止めてくるのには閉口した。 「さ、―――鎖骨・・!鎖骨を、見せないでください、お願いですからっ」 ・・・趙子龍は軍務の最中はそれは凛とした武人であるが、私生活においては尚のこと堅苦しい男であるらしい。 それにしても、顔を赤くしてまで怒ることはないであろうに。 「―――この国は妙なところだ」 「え。ええ?そうでしょうか」 「国主も妙で軍師も妙だが、武将もやはり妙であるらしい」 「・・・・なにを言われる!!軍師殿が妙なことは認めるが、武将も確かに尋常でないものもいるが、殿は、殿はそれは徳のある仁の御仁で!」 「妙だが、居心地は悪くない」 一瞬絶句した後むきになって抗弁する蒼龍の武人に、俺はそういって笑った。 俺が皮肉でもなく揶揄でもなく笑んだのが、やつにも分かったのだろう。 趙子龍は、もうなにも言わなかった。 50題―5.酒と肴...2007.11.24 (C)verdandi |