いつもように宮城をひと巡りして有事なきことを確認し、そろそろ私室に下がろうかと踵を返したときのことだった。今宵の夜警の任に就く兵士らが集まりはじめていて、拱手の礼を取る彼らに返礼していると、向こうから足早にやってくる人影が目に付いた。 私は彼にもかるい礼を取った。 「伯岐殿。今夜の警護は貴殿なのか。よろしく頼む」 「趙雲様」 張嶷、字を伯岐。大柄なのにも関わらず身のこなしは敏捷で、ひどく目ざとい眼と快活な口の端にいつも小さな笑みを浮かべている青年は、しかしなにやら深刻な表情で私を手招いた。 「なにか異常でもあるのか?」 もの言いたげな視線に、私も声をひそめた。 伯岐が背後の兵たちの耳目を気にかけているようだったので、私たちは空廊に出た。 城と城門を繋ぐ渡り廊下のようなもので、屋根がないので見晴らしがいい。 あいにく空に月も星もみえず、そのかわりに大きな黒雲が見えた。この分では雨になりそうだ。雲の厚さからみて、強く降るかもしれない。 「中庭にね、立ってる人がいるんです。抜き身の剣を手にぶらさげてね」 「―――なんだって?」 雲の動く早さや距離を目測していたので、反応がすこし遅れたのは不覚だった。 「曲者が!?」 「いえ、それが―――」 伯岐は言葉を濁した。どこか人を食ったところがある青年なのだが、じらしているわけではなさそうだ。彼にも判断がつきかねるというように首をかしげた。 「遠目でしたが、あれは貴人だ。それに、中庭といっても後宮や政庁のじゃないんですよ。おれが通ってきた道の途中だったんだから。この意味分かります?」 「兵舎の近くということか」 「いえ、近くじゃありませんね。もっと宮城寄りのあたり」 「と、いうと―――」 伯岐が頷く。兵舎から宮城までの間で城寄りのあたりというと、高位の武将が私室を持つあたりだ。 「あのあたりに居て、それも中庭に通じるほどいい私室を持っていて、おれが見ても誰だか分からなかった。そんな人物といやぁ、あんまり数は多くありません」 「・・・・・・・・」 それは。 それは、まさか。 「抜き身の剣を下げていた、―――と、言ったな」 「ええ」 「何を、していた?」 「なんにも。立ってただけです」 「殺気はあったのか」 「ありましたよ。背筋が寒くなるようなやつがね」 「――――」 彼は、何をしているのだろう。たったひとり剣を下げて、夜の暗闇のなかで。 私は一歩を踏み出した。そこに向かうために。途中、振り向いた。 「貴人らしかったといえど、剣を抜いていたのだろう。なぜ声を掛けなかった。そんなことでは伯岐殿、貴殿に成都の城の警備を任せることはできないぞ」 「まあね、趙雲様、おれだってそうはおもったんですけど。―――あれは人であって人じゃなかったんです。」 「人ではない?なんのことだ」 「月が哀しんでいても誰も声は掛けないし、掛けられないでしょ。多分、そういうことなんです」 「わけがわからない」 「趙雲様、急いだほうがいい。雨がきそうです」 伯岐が言い終わるか終わらないかという内に、ぽつりと雫が頬にあたった。 成都城は丘の上に建っているから、見晴らしがいい。晴れていれば錦江を望める。 暗がりの城下には民の家の明かりが見えていた。振り返れば宮城にも、人の居る窓からは控えめな灯りが洩れていた。それらは雨滴によって、急速に滲んだ。 あの明かりのどこにも、彼はいない。彼はひとりで、闇の中に立っている。 私は駆け出した。 私はすぐに彼を見つけることができた。 彼がつねにまとっている神獣をかたどった兜がなかったので、淡色の髪が闇に浮いていたから。 雨が長身を濡らしていた。 殺気などなかった。 哀しみだけがあった。 「―――・・・・馬超!!」 声を限りと叫んでも彼は振り向かなかった。振り向いたら、私はきっと立ち止まれたと思うのだ。立ち止まって笑みのひとつも浮かべて、「どうかなさったのですか、馬超殿?」とかなんとか言えたと思うのだ。 しかし彼は振り向かなかった。だから私はおもいきり彼に飛びついてしまった。 悪いことに私はいつもの軍装をしたままだった。鎧というものはその性質上、強固である上に重いものだ。それに私自身も武将であるせいか、人並み以上に強固で重い。 気がつくと私は彼ともつれあうようにして地面に倒れこんでいた。ふりしきる雨によって土から泥に変わりつつある地面の上に。寝間着ではないのだろうが、それに近いような軽装の彼の上に覆いかぶさって、ぬれそぼった躯を滅茶苦茶に掻き抱いていた。 「・・・・・危ないことをするものだな。刺さったら、どうする」 「え?」 彼の視線のほうを見て、見るまでもない至近に抜き身の剣が突き立っていた。事実、右目の下あたりが妙に雨がしみるのは、刺さりこそしないまでも、刀身がかすめて切れたのに違いない。 「かまわない、べつに」 「・・・かまわない、だと?」 「貴殿に触れられるのだったら、かまわない。剣くらい刺さっても」 罵倒されるのだと思った。 それでいいと思った。だいたい、雨の中を飛びつかれて突き倒された彼が、表情にも行動にも激怒を浮かべないのは何故なのだろう。 彼はなにも言わなかった。なにかいいたげに口を動かしたようにも見えたが、なにも言わなかった。 雨がひどく降っている。 水はいろいろなものを流す。しかしあらゆるものを流すものではないことを私は多分知っている。なぜなら、雨で乱世は流れない。 急に泣き出しそうな気分になったから私はあわてて笑おうとしたのだが、たぶん失敗したのだと思う。 私の顔をみて、彼のほうこそ泣きそうに顔を歪めたから。 50題―6.心の傷...2007.11.4 (C)verdandi |