春のある日、殿の伴をして狩りに出た。
 劉軍の狩りというと、軍事訓練と糧食の調達とを兼ねた大規模なものになりがちだが、今回のはそれほど大掛かりなものではない。殿のほかには張飛どのと私と、殿直属の親衛隊だけが付き従った。
 成都を陥とすのに長い月日を費やした。戦闘だけでなく、私が知らないような調略があったのだろう。もう少しというところで、かけがえのないもうひとりの軍師殿を喪うという凶事にも見舞われた。
 殿は諸葛軍師殿とともに精力的に動き、戦い、同族の劉璋殿をはじめ蜀の古老・宿将からの非難にも凛と堪え、着々とあらたな国をつくっておられるのだが、ここらで一度羽をのばしたいと考えたのではないだろうか。私はそのように拝察している。
 狩りといっても殺伐としたものではなく、その場で食う分だけ獲ればよいという気楽なもので、ひさしぶりの遠駆けを楽しんだ。
 劉備軍は殿のお人柄ゆえ、気さくな雰囲気がある。蜀という一州を得てからも、それは変わらない。法政殿や李厳殿などの新参の文官武官が馴染むのも早かったようにおもう。
 しかしやはり流浪に近いような窮状をともに戦い抜いた古参の武将だけで殿のお側にはべるのは、気楽だし居心地がよい。ことに張飛どのは、以前から私のことを弟のように可愛がってくれる。まあ張飛どのの可愛がり方というのは乱暴かつ横暴であって、閉口することも多々あるのだが・・・・。


 半日かけて成都から移動し、狩場である山野に入るや張飛どのがいきなり猛烈に駆け出した。
「この人数だから、獲物は多くなくていいな。せいぜい猪なら一頭、鹿なら1,2頭ってとこか!早いもん勝ちだな。よっしゃ、兄者、趙雲、競争だぜ!!」
「張り切っておるな、翼徳!」
 軽やかに笑いながら殿が受けた。
「では、まず一頭しとめたら口笛で合図することにしよう。狩りすぎると良くないからな。合図があったらいったん集合するということでよいな?」
「おう、分かったぜ!」
 駆け出した張飛どのとその愛馬の馬蹄の響きときたらすさまじい轟音で、あれでは行く先々の獲物はみな逃げ出してしまうだろう。
 殿が私に目配せをした。同じことを考えておられるのが分かって、私は頷いた。 
「子龍、獲物は譲らぬぞ!」
「畏まりました、殿。私も譲りませぬゆえ、ご存分に!」
 馬腹をひと蹴り。
 殿と私は同時に駆け出し、左右に分かれた。
 張飛どのの猛進がすさまじくて獲物が逃げ出すというなら、その逃げ道に待ち構えていればいいわけだ。
 そのあたりは、長年の付き合いで熟知しておられる殿の動きにそつはない。おまけに少々小柄な殿はその分動きが機敏だ。ご愛馬も名馬である。
「ちょっと分が悪いか」
 ひとりきりになって、私はつぶやいた。
 抗議するように馬がいななく。はやく行こう、もっと駆けよう、と言っているようだった。そうだった、私の馬も名馬なのだ。血統もさだかではない馬なのだが、戦場でもどこでもいつも、私の意をはずしたことはない。
 横腹にかるい一蹴りを入れると、愛馬は風を切って駆け出した。
 
 
 結果はというと、見事な大鹿が一頭。
 思惑通り、張飛どのの騒々しい突撃で逃げ出した鹿を、殿と私とで挟み撃ちにした。
 焚き火を起こして焼いて食った。味付けは塩だけだったが、とても旨かった。
 夜は山の中腹に建つ城館に泊まる。蜀の太守や豪族などが狩りをする際に使う宿泊所という城館の設備は、なかなか整っていた。石で囲った湯殿は、人が温めたものではなく、ひとりでに湧きだしている温泉なのだという。
 殿がまずはひと風呂と言い出されたので、私は警護に付いた。
 湯気で刃が曇らないくらいの距離を取って、背に湯煙を感じていると、ふと風呂が好きではない人のことを思い出した。
 意識して嫌っているふしがあるのだ。風呂に入るのは、漢人の風習であると。
 羌族の民にはわざわざ水を温めてそれに浸かるなどという軟弱な文化はないのだと、別の人に聞いたことがある。
 ではどうするかといえば、川か湖で身を濯ぐのだのだという。
 私は、井戸のそばで水を浴びている彼を見かけたことがある。
 初春とは名ばかりで、まだ花などひとつも咲いていない時分のことだ。
 凍えた冷気が骨まで染みる、夜更けのことだった。
 すこし、異様な感じのする光景だった。 
 透明な水滴が、鋭利な頬と顎を伝って地面にしたたり落ちていた。淡い色合いの彼の髪にも水滴は無数に纏いついて・・・彼は目を閉じていた。切れの長い眸が閉じられていてさえ、険しい眦の印象はすこしもゆるまない。いや、目を開けてあの冷たい眸の色をさらしている時よりも、目を閉じた貌のほうが、どこか凄絶であると思った。
 井戸で汲んだ水を屋外で浴びるなど、凍りつくようであるに決まっている。しかし寒さも冷たさも彼はあまり感じていないようだった。目をきつく閉じているのはなにかに耐えているように見えたが、水や風の冷たさに耐えているのではないように、私にはおもえた。
「温泉ならば、良いのだろうか?」
 わざわざ水を沸かして湯にする風呂ではないから、べつに軟弱ではないだろう。自然に湧いているものだから漢人とか羌人とか関係ない。
「ん?どうした、子龍」 
 顔を上げると、湯べりに頬杖をついて殿がにこにこしておられる。
「湯はいかがですか、殿」
「そうだなあ、いい湯だ。荊州には湧き湯はなかったものな。こんなにゆっくりするのもひさしぶりだ」
 殿がいうには、ここの湯は鉱泉なのだそうだ。筋肉の疲労を取るにも良し、打ち身や怪我にも効き目があるらしい。
「孔明も連れてくればよかった。狩りだからと置いてきたのだが、温泉があるとは盲点だった。肩こりに効きそうだ」
「軍師殿は肩こりなのですか」
「ははは、ひどいのだぞ、あれは。まるで肩に石でも入っているようなのだ」
 つられて笑った。
「そんなにひどいのですか」
「狩りなど無視して温泉に一直線だぞ、孔明はきっと」
「はは、」
「馬超も連れてくればよかった」
「は―――――――・・・ぇ」
 吃驚した。ど、どうしてここにあの人の名前が出てくるのだ。
「ば、馬超殿も肩こりなのですか」
 落ち着け。なにを言っているんだ私は。肩こりの猛将なんて聞いたこと無いぞ。
「あれは張り詰めた糸のようなものだ。孔明もそうだが、馬超も酷い。ぎりぎりまで引き絞られた瞬間に時が止まってしまった弓弦のようなものだな」
「・・・それは」
「おそらく矢が標的をとらえて放たれるまで、そのままでいるつもりなのだろうが・・・切れはせぬかと、みていて時折ひやひやする」
「殿、――」
 私は先を聞きたかった。もっと話を続けたかったのだが――
「兄者!酒だ、酒!湯につかりながら一杯といこうぜ!」
「はは、翼徳が一杯で済むはずがないだろう」
「おぅ!一杯といわず一樽用意してるぜ。ともかくはまずは一杯って、な。おら子龍も入れ。警護なんざ兵だけで充分だろ」
「だそうだ、子龍」
「・・・はい」
 張飛どのにさえぎられて、その話はそれでおしまいになった。
「弓弦は、引き絞ったままでいてよいわけがない。道は長く、遠いのだからな」
という、殿のつぶやきのみを残して。



「湯のそばに桃を植えようかな」
 殿がふと仰った。
「桃を?」
「ああ。鉱泉の湧く場所は地の熱があって、樹木の生育が早いのだ。桃は植えてから実を得るまでになかなか長いとしつきがかかるんだが、ここならばはやく実がつくような気がするのだよ」
「左様ですか」
「それに、実がつかなくとも花は咲くだろうからな。そうすれば皆でまた来ればよい。孔明も雲長も、馬超もみな連れて」
「そうですね」
 想像してしまって、私はちょっと動きを止めた。
「馬超殿が、花を見ながら露天風呂」
 軍師殿や関羽殿はなんだかとても似合うのだが、―――あの人はちょっと、かなり微妙だ。
「よい考えだろう?」
 殿は満面の笑みを浮かべておられるが。
「・・・皆と湯につかるのは、嫌がりそうな気がしますが」
 殿はますます笑みを深くされた。
「嫌がるだろうな。だいたいあれが衣服を脱ぐとか肌蹴るとかいう以前に、襟をちらりとでも緩めるのもわたしは見たことがないな」
「私はありますが―――や、そういうことではなく」
「ああん?なに四の五の言ってんだよ、兄者も趙雲も。んなの、寄ってたかって剥いちまえばいい」 
「張飛どの。それはあまりに乱暴では」
「おお、たのもしいぞ、翼徳!!」
 私が呆れるのと、殿が叫んだのは、同時だった。 



 湯のそばに桃の若木が植えられることは決まった。
 咲いたら皆で行楽に来ることも決まった。
 湯に入ることを嫌がった者は張飛どのおよび張飛どの選抜の武将によって剥かれて湯に落とされることも決まった。

 あの人の心底嫌そうな、不機嫌に憮然とした表情が目に浮かんだ。
 それから、困惑して激怒して暴れる光景も。








50題―7.あなたの喜び...2008.4.8
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