顔を合わせると笑いかける。目を合わせると赤くなる。会話を交わすとうろたえる。背を向けると熱の篭った視線が追ってくる。 これでは気づかざるを得ない。 「それで貴方のほうはどうなのです?」 白い羽でつくった扇の向こう側で、切れ長の黒眸が微笑する。 肩をすくめて問い返した。 「どうとは。如何なることか、軍師殿」 「あの方の恋心に応えるお積りがあるのかどうか、ということですが」 目の前にある白面をまじまじ見返した。呆れていたのだ。 「軍師殿はどうかしておられるのでないか」 自軍の武将同士であるのだ。 男同士であることはいうに及ばず。それでどうして恋なんぞという言葉がしれりと出るのか、正気を疑う。 ねめつけたところで動じる相手ではない。軍師は意味深に笑んでいたが、ふと俺の背後へと目を細めた。 「鳥が」 黒眸の追うほうに仕方なく振り返って視線を投じると、たしかに鳥がいた。 黄緑色の樹木の葉が揺らして、鳥がいる。その樹に咲いた白っぽい花にせわしなくくちばしを突っ込んでいる。 小さい。鳴き声も小さい。 「のどかですねぇ・・・」 ああ。のどかだ。 思わず、内心で吐き捨てた。 のどかすぎて何かが腐りそうだ。 「俺は、恋なぞできぬ」 できるものか。 「するつもりもない」 あの男がどういうつもりで俺に目をつけたのかなどは知らぬ。 この軍師をはじめ主君や張飛といった面々がいかにあの男を可愛がっているのか知らぬが、あの男の恋とやらを推奨するのだけは止めて貰いたいものだ。迷惑極まりない。だいたい、いかにもくだらぬ。 「戦に出してくれ、俺を」 「ここしばらくは国力の増強に励みたいとおもいますので」 「結構なことだな」 「戦はいたしません」 「盗賊狩りでもなんでも良い」 「殺伐とした申し出ですね。ですが間に合っておりますよ。どうか逸らないで下さい。我が君の大望はいまだ端緒に付いたばかり。いずれ遠くない未来に魏呉との決戦がありましょう。そのときは嫌でも貴公に参戦願わなくてはならないのですから」 「―――」 「さて、茶でも入れましょうか」 がたりと卓が鳴った。いかにも無粋に卓を揺らしたのは俺の脚だが、むろん故意のことだ。 目が合ったが、軍師は逸らしたりはしない。この国の者は俺と目があっても逸らさないのだ。睨みつけても同じことだ。西涼では、俺と目を合わせてうろたえない者は少なかったし、睨みつけて慌てない者も少なかった。 この国は居心地がよい。ぬるい湯のように。 振り払っても振り払ってもまとわりついてくる心地よさに窒息しそうになり、目を閉じた。 向かいで立ち上がる音がして、衣擦れがし、静かな音が連続して聞こえたが、俺は目を閉じていた。やがて湯が沸く音がした。 「待てない・・・・・」 ことりと、なにかが卓に置かれた。涼やかな青磁に新緑の色の茶が煮えており、たちのぼる湯気があまりにものどかでまた目を閉じた。 「待てぬ。・・・俺は武人だぞ。戦う以外に何ができる」 穏やかな眼差しなど要らぬ。微笑など要らぬ。目を合わせるとはにかむのもやめてくれ。 言葉も、気遣いもいらない。 「軍師殿、俺の部屋はとくべつに広いそうだな。要らぬ」 「馬超殿」 「広い部屋など要らぬ。高い官位も要らぬ。なぜ、俺を使わない。戦に出してくれ。なにも今すぐ曹・・魏賊の首を取りに行くと言っているのではない。賊の征伐でも反乱の制圧でもなんでもよい。蜀にはいまだ劉備殿に膝を折らぬ豪族がいると聞く。そやつらと戦わせてくれ」 でないと、俺の中で何かが壊れそうだ。 「・・・茶を、どうぞ。馬超殿」 「漢人の飲みものなど、要らん」 俺は目を開けた。諸葛軍師は表情を崩さずに、俺を見ていた。それから厳粛な様子でゆっくり首を振った。 「今の状況で、軍を動かす余地はないのです。成都はようやく政局も人心も落ち着いてきたばかり・・・そこに大掛かりな兵馬の動きがあれば、また人々は不安に思いましょう。たしかにいまだ劉備様にまつろわぬ豪族は蜀の各地におります。しかしそれを討ってしまえば、人徳の君主という劉備様の呼び名が嘘になる。どれほど時間がかかっても良い、武力で征服するのではなく心を開かせたい――というのが殿のお考えであるともに私の願いでもあります」 「武しか取りえのない武将などの出る幕はないということか」 嘲笑がもれた。主君の考えがひとつも間違っていないと分かりながら、止められなかった。 渇いた笑みは長いこと、止まらなかった。 「馬超殿。武とは、力とは、たいていの場合壊すことに使われます。破壊することに。ですが、真に力を持つものは守ることもできるのです。現に、あなたが劉備軍に参陣したという報を受けて、成都は戦わずして城門を開きました」 「俺が戦ったわけではない」 臆病風に吹かれた劉璋が、勝手に降伏を願い出たのだ。 「あなたは戦わなかったから功がないと言われる。しかし、戦わないことにこそ功があるのが分かりませんか。成都の手前、ラク城では数万の犠牲が出たのです。そのほとんどが民だったのですよ。蜀の、益州の首都である成都で戦闘があったとすれば、ラク城にまさる犠牲が出たに違いない。それがひとりの武将の武名に救われた。それがどんなに価値のあることなのか、分からない貴殿ではありますまい」 「軍師殿。俺が言いたいのはそんなことではないのだ。功があるとかないとかそんなことは、どうでも良い。ただ、俺は、――このままではいられぬ」 「結構ではないですか」 「なんだと?」 「貴殿はご自分がなにか変わってゆきそうでおそろしいのでしょう。ですが、変わらないものがどこにあります?世のものは何もが変わってゆくのですよ。それを嘆くものが多いですが、なぜ、良いように変わることを思わないのでしょうか。私たちは生きているのです。生きているということは変わるということであり、変われるということです。変えてゆけると思うからこそ、私たちは生き、戦っている。そうではありませんか?」 冷め切った茶を飲んで、室を出た。 もう日が暮れていた。 からっぽだ。なにもない。足取りが妙に重かった。 回廊の柱の脇で、気掛かりそうに顎に指をあてて佇んでいた男が、ぱっと顔を上げた。 「・・・馬超殿!」 要らぬというのに。 眼差しも、笑みも。言葉も、気遣いも。 「・・・なぜ、貴殿がここにおられる」 「軍令書を持っていったまま軍師殿の室に篭られていると聞いたので、すこし・・・心配になって」 俺は笑った。空虚な笑い声が、喉を震わせた。 「俺の室に寄られぬか、趙雲殿。酒を用意させよう」 「――私が、貴殿の室に?」 これ以上黒いものはあるまいと思わせる、夜空のような見事な黒眸が驚きに見張られる。 「無論、軍務があるならば構わぬが。それとも、嫌であられるか?」 「もち、ろん、嫌ではありません、馬超殿。軍務もありません。喜んでうかがわせていただきますが、その・・」 有能な武人は、俺の流し目に何を思ったか、端麗な容貌を朱に染めた。 今夜、この男と寝てみようか。 狂ったような馬鹿げた思いつきに、哄笑しそうになった。 50題―8.もう待てない...2008.10.20 (C)verdandi |