俺の室に寄られぬか、趙雲殿。酒を用意させよう

 ――――それとも、嫌であられるか?



 そういった時の彼の目を、なんと形容したら良いか分からない。
 もとより容姿のすぐれた武人ではあるのだが、人々が脅威までをいだく彼のいでたちに、さして感銘を受けたことはなかった。勇ましいとも綾めいているとも思う。しかし彼の姿も戦い方も激しすぎて、綺羅よりも凄惨を感じることのほうが多かったし、感嘆と同じくらい哀惜を感じる。
 抜き身の白刃、というのが相応しい姿であり容貌であり、言動もそうだ。
 だが、皮肉めいた笑みを浮かべて私を酒に誘う彼の表情はいままでにないものだった。男、それも武勇を極めた猛将にこんなことを感じるのは変なのだが――濃厚な色香を、感じた。それでいて、白刃の鋭さは変わらないのだ。
 彼が意図なく自室に他人を招くわけがない。それが私ならば、なおさらのことだ。
 彼は、私が彼に対して恋情を抱いていることを知っている。
 
 期待、しているのではない。私に想いに対して、彼がなにがしかの応答をしようとしているのだとか。
 彼にとってはほんの気まぐれであり、ただの思いつきなのだろう。
 そんなことは分かりすぎるほど分かっていたが、胸が高鳴るのはどうしようもない。



 広くてあまり物のない彼の室で、卓をはさんで向かい合う。
 酒と酒杯は従者が用意した。室に向かう途中で呼びつけ、顎で使うように命じて持ってこさせたのだ。そういう時の彼は、人の上に立つべくして育てられた人だということがよく分かる。命じることに慣れきった、自然な倣岸さなのだ。
「軍師殿となにか話をされましたか」
 軍師と武将、それも当代においてそれぞれ最上の軍師と武将がなにを話していたのかあまり想像できないが、謹厳な容貌からとっつきにくく思われることの多い孔明殿は案外話し好きで、さすがに博識だから、実は他愛のない世間話をしていたのだと言われても驚かない。
「あの方はああみえて好奇心が強いから。涼州の風習など知りたがるでしょう」
「叱り飛ばされた」
「え?」
「叱られたのさ。容赦なく、完膚なきまでにな。もう、何も残っておらん」
 いっそ、さばさばした気分だ。
 そう言って彼は、酒を流し込む。

 さばさばしたというわりに、抜き身を思わせる雰囲気はとげとげしい。
 淡い色の眸は凄みを帯びて底光りしていて、―――それでいて空虚だ。
「馬超殿、なにか腹に入れたほうがよいのではないですか」
「何故?」
「貴殿は昼からなにも食していないのでは?食べずに飲むと酔いが早く回りすぎる」 
「趙雲殿」
 彼が口の端で嘲笑う。
「酒は、酔うためにあるのではないのか」
「いちがいにそうとも言えないと思いますが」
「それもそうだ」
 酒の効用はもちろん酔う以外にもある。身体を温めたり座を和やかに取り持ったり・・・分かりきっていることなのだが、素直に肯定する彼は奇妙だった。
 絶えず浮かべている笑みも。けしてこちらを直視しない視線の投げかたも。杯を持ち上げる指先も。酒のあおり方も、どこかしら投げやりだ。
 私は酒が強くないのであまり過ごさぬように飲んでいたが、彼は水のように流し込んでいる。酒豪なのは知っているが、早すぎる。まるでさっさと潰れたいといわんばかりだ。
 意中の人の室に招かれて酒を振舞われているというのに、甘い雰囲気は微塵もない。むしろ彼を取り巻く殺気にも似た凄惨な気は、いつもより濃いくらいだった。 


 会話は続かない。彼との会話が弾んだためしなんかないけれど、いつにもまして酷い。
 薄い笑いを浮かべた彼は、私の問いかけにことごとく投げやりに、それでいて攻撃的な意見を述べた。いつものことと言われればそうだが、嘲笑が付いてくるのには堪えた。
 それに、彼は攻撃的であるが、その槍先は彼自身の方に向いてはいないだろうか。
 私を笑いながら、傷ついているのは彼である気がした。
 ついに私は話を続けるのを諦めたが、それすら彼はどうでも良いことのように黙々と飲み続け、私のほうに目をくれようともしない。
 ひどくみじめになった。
 なぜ彼が私を招いたのか分からないが、私は良い酒の相手になれない。招かれたことに驚きもしたが内心では喜んでいただけに、落胆は大きかった。
「楽しんでおられぬようだな」
 はあ、と生返事をした。楽しんでいないのは彼のほうだ。

 彼は大きく息を吐いて椅子にもたれかかり、放心したように目を宙に投げた。
 卓にひとつだけ灯った明かりと、窓辺から差し込む月明かりに、白い容貌が映えていた。女人のようなやわらかな白さではなく、弱弱しさなどかけらもない。鋭く引き締まった険しい顔立ちは、だがどこか脆さを秘めている。
 まったくいつものように、私は彼から目が離せなくなった。胸が痛んで、やるせなかった。
 うつろに視線をさまよわせた彼が投げやりな仕草で酒杯を口にはこぶ。足を組んで背もたれに深くしずんだ安定を欠いた姿勢のせいか、酒杯の端から透明な酒が細い筋となって彼の顎を伝い、したたり落ちていった。
 彼がのろのろと手を上げて顎をつたう雫を拭い取り、細い筋をつくったそのままに顎から首へと手の甲で拭い取り、無造作に襟をくつろげた。
 まるで時間が止まったようだった。
 私の視線に気付いた彼はしばらくぼんやりしていたが、やがて、思いついたように喉に手をやった。
 淡い色の双眸が驚いたように見開かれ、―――形のよい口端がゆっくり、そら恐ろしいほど時間をかけてゆっくりと、笑みの形にゆがむ。

「以前――も、同じようなことがあったな、趙雲殿」
「―――」
「あのとき俺は、貴殿が喉を見せるな衣の前を合わせろとしきりに言うもので、酒の席でも乱れを許さぬ堅苦しい男だと思っていた。だが、・・・違ったようだ。」
「ば、馬超殿」
「堅苦しいどころか。貴殿は、あのとき何を考えておられた。それに、今も、」
「私は、あなたのことが好きなのです、馬超殿」
 ひとこと言うと、頭に血が昇った。誰にも焦がれたことのなかった私は告白とも無縁だった。こんな台詞を言ったことがない。
 怒ると思った。
 これまでもそれを匂わせることを言ったことはある。言わなくても私の全心が彼に向いていたのだ。分からないはずがなく、そのたびにすさまじい怒りに触れたものだ。
 だが、彼は怒らなかった。笑いもしなかった。浮かびかけていた嘲笑は、私の直截な告白に、消えていった。
 笑みを消した彼は妙に沈んでみえた。
 常にまとっている殺気すら、その殺伐とした気配をひそめていた。

 ややあって彼は、力なく首を振った。
「こんなもの・・が、欲しいのか」
「こんな・・もの?」
 かすれた呟きだった。知らず私の声も上擦る。
 彼は顔を歪めた。一瞬泣くのではと思ったが、その表情は仕草と同様に乾いていた。どうしようもなく、渇いていた。
「抱いて、みるか?」
「なにを言うんだ」
 心底、驚いた。
「べつに・・・たいしたことではあるまい」
 ―――たいしたことではない? 
 声が詰まった。
 からかっているのではないことは分かった。からかわれたのだったら、そのほうが良かった。私は赤くなってしどろもどろに口ごもり、そんな私を彼は笑うのだ。滑稽だが、そのほうがどれだけ良いか分からない。
 顔に上っていた血の気はさあっと引き、かわりに暗雲が立ち込める。それ以上は言わないでくれと思った。だが彼が、冷たく空虚に吐き捨てた。
「どうせ、空っぽな躯だ。なにも残っていない。死に損なった上に―――・・・・・欲しいのならば、こんなもの、くれてやる」
 頬が引き攣り、形相が変わったのが自分でも分かった。
 手が、震えた。
 あまり意識してはいなかったが、私は立っていた。「好きだ」と告げてしまったときに、立ち上がっていたのだ。
 一歩、前に出る。
 一瞬あとに耳障りな音がした。卓を押しのけるようにして前に出たので、酒がはいった壷と酒杯が床に投げ出されれてけたたましい破壊音を立てる。
 卓が邪魔だったので手で払って退けた。転がってすさまじい音がしたが、どうでも良かった。
 もう一歩前に出ると、もう距離は無かった。
 驚いたように目を見張っている顔は、はじめて好きだと思った人のものだった。好きで好きでたまらないと思った人物のものだった。私は握り締めた拳で、その顔を殴りつけた。当たり前だが、容赦はしなかった。








50題―9.過ち...2009.2.5
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