趙子龍に殴られた。
 鬼のような形相をまじまじと見返しているところを、殴られた。
 卓は、部屋の隅まで吹っ飛んでいた。酒器は、割れて転がっている。真っ二つに分かれてころがり、尖った破片のふちから酒が滴っている。透明な酒になぜか胸がえぐられた。酒器のふちを濡らす酒の雫は、割れた破片が泣いているように見えた。

 泣きたい、と思った。

 何故だか分からない。
 泣き喚きたい衝動に駆られたのだ。
 思い通りにならないことがあると、馬を出して沙漠を駆った。泣くのはいつも、沙漠だった。誰もいない砂海で声を上げて泣く。いつの頃からか、誰もいなくても、声を殺して泣くようになった。どちらにしても餓鬼の頃のことだ。餓鬼の頃はよく泣いた。よくああも泣く理由があったものだ。剣で体術で年上の近習に勝てぬから、とかいうくだらない理由で、砂漠を駆けては泣いていた。
 泣かなくなったのは母を亡くしてからだ。砂漠で駆けても泣かなくなった。泣かなくても砂漠を駆けていた。
 あの場所は、もう無い。泣いても良い、と思える唯一の場所を、俺は失ってしまった。
 だから今、涙は出ない。泣き喚きたいと、思ったにも関わらず。
 怒りの形相の趙雲に襟をつかまれ、引きずり起こされる。
 拳を振り上げたので、もう一発殴るのだろうと思った。だが、いつまでたっても衝撃がない。
 不思議に思って目を上げると、此のほうを睨みつける黒い眸と目が合った。美しい目だと思う。濁りが無く、真っ直ぐだ。憤怒に染まっていてもそれは変わらない。
 血の気を引かして青白くみえる端麗な容貌が歯噛みして、くしゃりと歪んだかとおもうと、まるで川で溺れかかった子供みたいに、俺の首根にかじりついた。

 趙子龍は武装をしている。
 龍を意匠した蒼銀の鎧だ。
 生真面目な男だ。夜だというのにそんな格好をしている。
 此の方は軽い武袍姿だったから、衣を通して趙雲の鎧が食い込んだ。殴ったときも本気だったが、抱擁もまた本気のようだった。痛い。鎧が、食い込むのだ。痛い。
 肩が揺れていた。
 肩越しに見える黒い髪束もまた細かく揺れている。いや、震えている。
 ・・・趙子龍は、泣いているようだった。
 俺は、目を閉じた。きつく瞑って。もう開けたくなかった。 
 また、泣きたいという思いがこみ上げた。涙は出てこない。首元が湿っている。趙子龍が、泣いているからだ。
 なにかが、抜け落ちた。
 空っぽだと思っていたのに、まだ残っていたものがあったのだろうか。空虚な躯から、名など付けられぬ感情だかのなにかが、抜け落ちた。
 抜け落ちたかわりに、なにか、熱いものがこみ上げた。






「貴方は酷い」
 趙子龍が言った。
「私は貴方が好きなんだ。それを――くれてやる、だと?――ふざけるな」
「・・・・・・・・」
 好きだと、抜かすからくれてやろうとしたのに。
 好きだからこそ、くれてやってはいけなかったのだろうか。

 襟を掴まれて羽交い絞めにされた。首が締まって、すこし苦しい。 
 力を抜くと、押されて背が壁に当たった。
 悔しそうに顔を歪めて口惜しそうに息を継ぎながら、趙雲が顔を上げた。俺はすこしぼんやりとしていた。いろんな感情が抜け落ちて、それでいて空白ではなかった。俺の胸には穴が開いていた。憎悪と屈辱と、そのほか苦痛でしかない雑多な感情がそこには詰め込まれていた。穴は今も変わらず存在し、負の感情が黒々とわだかまっている。そこに少しだけ隙間ができた。その隙間に、趙子龍の怒りと、趙子龍の涙が、しみ入ってくる。熱くあたたかいその感覚に俺は、ぼんやりとしてしまったのだ。
 場に相応しくないほど茫洋とした表情をしていたのか、趙雲が睨みつけてくる。目が赤いが腫れているというほどではない。端整な蒼将は、怒った顔をしていても泣いていても端麗だった。その容貌が、ゆっくりと近付く。
 触れる寸前で一度、ためらうように止まった。止まったのは一瞬だけことで、また迫って、重なった。
 合わせるだけの、口付けだった。
 








50題―10.一度でいい...2009.7.31
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