暑い日だった。 趙雲は彼らしくもなく怒りをみなぎらせて馬を走らせていた。 城下を走り、街中を抜け、小高い丘を駆け上がり。ついには山中にまで入ってやっと、見つけた。 真夏の陽気にきらめく湖。立っているだけで汗がにじむ城内とはうってかわって、ものやわらかな涼しい風が吹いているのに怒りが加速し、大音声で呼ばわる。 「馬超!!」 「!?」 目にしたのは、のんきに水辺に座り込み、足を湖水に浸している姿。下袴を膝のところまでまくりあげ、上半身は薄物一枚まとっただけだ。脱ぎ捨てたのあろう上着が、かたわらに放り出されている。 その上着を見て、趙雲はキレた。 軽い外出用、馬でちょっとお出掛け、というときに着る服だ。簡素で飾り気なく、布と仕立てはいいのだが、間違ってもこれで宮城に参内することは出来ない。つまり馬超は、今日ははじめから出仕するつもりなどカケラもなく、また遠乗りから帰ったら職務につく、とう心積もりもミジンもないわけだ。 振り向いてぽかんと口を開けた馬超をぎらりと睨みつけ、趙雲は馬を降りる。 あ、とか、う、という形に口を動かした馬超が身じろぐも、素足を水につけた無防備な体勢はいかんともしがたい。 軍装の具足を鳴らして趙雲が近付いてくる。薄物を着ただけの己と引き比べて、鎧を繋ぐ鉄片が硬質な音を立てるのが、なんとも居心地悪い。 さすがの馬超も今日ばかりは軽口をたたけなかった。 いつもならば、怒っているのかお前?とか、何を怒っておるのだ趙雲?くらいは言うのだが、今日ばかりは、趙雲が怒っているのは問うまでもなく一目瞭然であるし、また何に怒っているのかも明白だった。 「――よくここが分かったな?」 上目遣いに馬超が言うと、もう数歩のところまで近付いていた趙雲の眉がきりりと跳ね上がった。 「苦労したさ。道行く民に聞いても、騎馬の将など見ておらぬという。お前ほど目立つ者を見逃すはずがない、と思わず民を締め上げそうになった。だが、わざわざ誰にも見られないように、道なき道を行ったのだと気付いた。この獣め」 かえす言葉もないとはこのことである。まさにその通りだった。 「それで、・・よく見つけられたな。しかしケモノとは、」 言い過ぎではないか?と言おうとしたが言えなかった。 「獣道を行く騎影をみた気がする、と言う猟師がいた。もっとよく見ようとした次の瞬間には姿が消えていた、とな。あんな道は獣でないと通れない、と驚き呆れていたぞ」 「そ、そうか・・」 「それはそうと、馬超」 「う、うむ」 ほんのあと1歩のところで、具足をつけた足が止まる。水に足をつけて楽しんでいた涼感はきれいに消えうせ、背につぅと汗が流れる。暑気による汗なのか冷や汗なのか、判然としない。 「諸葛亮殿からまかされた書類十巻を放って抜け出した、その理由を、聞かせてもらおうか」 趙雲は無表情に、腕を組んでいた。仁王立ちというやつだ。もとがこの上なく端正であるために、感情を消されると怖い。 「それはだな」 馬超は無意識に唇を舐めた。目の端で剣の位置をさぐる。趙雲の表情がものすごく怖いからといって別に剣で対抗するわけじゃないが、素手というのは落ち着かない。そのくらい趙雲の表情が怖いということだが、あいにく、剣は趙雲の足の向こう側に、脱いだ上着と一緒に置いてあった。 馬超は口下手だ。上手い言い訳など思いつくはずも無い。頭をかかえた彼は、全面的に非を認めた。 「す、すまぬ。暑かったからだ!俺は、机仕事が向かぬ上に、この暑さで脳が溶けそうであったのだ。書類は、その―――」 ちらり、と上を見る。趙雲は腕を組んだまま見下ろしている。 「暑かったから、夜に涼しくなってから片付けようと思った、という言い訳なんか聞かないからな。あれが今日の昼間までの期限だと、知っていたはずだ。諸葛亮殿が期限を延ばすわけがないこともな。お前は分かっていたはずだ。お前がやらないのなら、代わりにするのは私だとも、な!」 「違う!お前に押し付けようなどとは思っておらん。ただ、ただ暑かったのだ!!」 「ふん」 趙雲の目がす、と細まる。 「暑いのなら、丁度いい。そこで涼んでいろ」 「何、―――ぅわっっ!!」 容赦ない蹴りが背に入り、―――馬超は湖に、転がり落ちた。 とっさに受身を取ったが、落ちた先が水面では役に立たないばかりか、かえっておかしな格好で水中に没するはめになった。外から見ていた時は澄んで美しげな湖水であったが、水中に没してみると視界は不透明で得体がしれない。頭から転げ落ちた馬超は手で水をかくが、地上でのように腕が軽く動かない。その間にも衣服の隙間に浸水がおこり、濡れた着物が絡みついてどんどん体が重くなる。 水は顔の目といわず耳といわずに入り込み、口に入ってきた水を馬超はしこたま飲み込んだ。頭の奥がかっと痺れ、鼻と喉がずくりと痛む。息が吸えない、呼吸が出来ないという混乱に、馬超は必死に水を掻く。 ようやく水面に顔を出したが、呼吸しようとした瞬間、口中に水が入ってくる。息が、できない。 「趙・・っ・・・」 いいざまだと岸辺で見ていた趙雲は顔色を変えた。 「馬超!泳げないのか・・・!?」 ゴブッといやな音がして淡い色の髪が沈んだ。すぐに浮いてきて顔を出すが、息ができているようには見えない。 「馬超!」 迷わず飛び込んだ。飛び込んだ瞬間、しまったと思った。趙雲の鎧は胸甲から手甲まで含めて鋼鉄で、水に浮くようなしろものではない。上半身のほうが防具が厚く重いので、頭から逆さまに水中に引き込まれそうになった。地上では不自由なく動かせる腕が、何倍も重い。肩甲が水の圧力を受け、水を掻く邪魔をする。それでも水を掻かなければ間違いなく沈んでしまうし、一度沈んだらもう浮かび上がってこれないだろう。枷を付けられているように重い手を動かし、水面に顔を出す。浮くどころか、引きずり込まれそうな重みに耐えて、視線を動かした。 馬超の混乱ぶりは只事ではない。なまじ腕力も気力も強いものだから水面下で力任せにもがいているのだが、めちゃくちゃに手足を動かせば動かすほど沈んでいくという、水難事故の典型的な例だ。これで不用意に近付いてしがみつかれれば、一緒に溺れてしまいかねない。鎧をつけたままの趙雲には、暴れるのを押さえつけて岸まで泳ぐというのは、できない選択だった。 「馬超!動くな!―――手足を、動かすな!暴れるんじゃない!!」 溺れかけている者に、水を掻くなというのは無謀な要求である。 しかし趙雲にも余裕がない。鎧の重さが趙雲を水中へと、光の射さぬ湖底へと誘っている。それに抗って水面の一箇所で顔を出し続けることは、前に向って泳ぐよりもなお難しかった。 またゴボッと音として沈み、次いで顔が出る。水と空の境い目で、呼吸を求めて格闘している馬超と目が合った。 「馬超・・・!」 趙雲は叫ぶ。 「必ず、助ける。私を信じてくれ。手を動かさず、力を抜いてくれ。頼む」 また目が合った。混乱と恐怖が、驚いたような表情に変わって趙雲を見詰める。それから馬超は、ふっと目を閉じた。動きを止めた手足が、淡い色の髪が、静かに水中に呑みこまれていく。趙雲は一度大きく息を吸って、水を掻いて潜った。 「――ゲホッゲホッッ」 馬超が草むらを転げまわっている。草を掴んで派手に咳き込んでいるあたり、とりあえず死にそうにない。 趙雲のほうがぐったりしていた。もう二度と鎧付きで泳ぎたくない。 「・・・ぅぐ・・ゴホッ・・・ッ」 水が上手く吐けないらしい馬超は、だんだん顔を青褪めさせていた。草むらに顔を突っ込んだ形の上体が、ひくひくと痙攣し始める。こちらも草むらにうつ伏せに倒れている趙雲が、顔を上げた。 「っく、・・・はっ・・!」 「・・・馬超」 趙雲は体を起こさずに手だけ伸ばして、苦しげに暴れる馬超の腕を掴み寄せ、体勢が崩れたところを狙って首裏に手刀を入れる。 「ぅ――――」 馬超の体から力が抜けて、がくりと膝をついた。面倒なく一発で邪魔な動作を封じた趙雲は間髪いれず起き上がりざま、うずくまりかけた馬超の腹に、拳を叩き込む。 腹の辺りから胸へとせり上がるようにごぼ、と音がして一瞬後に、馬超は大量の水を吐き、趙雲は力尽きて倒れこんだ。 「どこまで迷惑なんだ、お前は」 「・・・知るか」 風がさやさやと吹いている。 呼吸が落ち着いたあとも、草にころがったままだ。趙雲は仰向けで真っ青な空を仰ぎ、馬超はまだ胸苦しいのか腹に手をあてている。 「お前が・・水に落とすからだろうが!一歩間違えば、沈んでいたぞ!」 「まさか泳げないとは思わなかった」 ぐ、と馬超が黙り込む。 「――泳げない、とは限らぬぞ。いや、多分、尋常な状態で水に入れば、泳げると思う。泳いだことがないだけだ」 「なんだって?」 趙雲がいぶかしげに隣を見る。馬超のほうがきょとんとした。 「仕方なかろう。涼州では、泳げそうな湖など見たことがないぞ。河はたいてい雪解け水が轟々と流れる濁流であるし、湖だとか泉というのも無くはないが、草原や砂漠にぽつりとできる水溜りのようなものだ。体を浸して洗うくらいはするが、泳ぐ、という発想がそもそも無い」 「なるほど。それもそうか。まあ・・・悪かったよ。悪ふざけがすぎた」 「いや。そもそも、俺が・・・悪いのだしな」 さすがの馬超も、これ以上責めようとは思わない。 「しかし私もさんざんだ。執務は押し付けられるし、鎧をつけたまま泳ぐはめになるし。なんだかな――お前に付き合っているとろくなことがない」 「・・・・」 「執務もなあ・・・私は夜間の警備についていたから、寝てないんだ。朝になって殿と軍師殿に挨拶して退出しようとしたら、お前が居なくなったと騒ぎになっているし。どうせ暑いからとかいう理由だろうとは思っていたが、案の定、だものな。まったく・・」 「寝てないだと。そんな状態で、お前、――俺を助けたのか」 「仕方ないだろう。放っておけば良かったか?」 じろりと趙雲が視線をよこす。じと目で睨まれると馬超も弱い。 「分かった!!これは借りだ!十くらいまとめて借りておくことにする。今度何かお前に助けが要るようなことがあれば、俺は助力を惜しまぬ。命を賭けて助けることを誓おう」 「命など、賭けて欲しくない」 「では、何を賭けて欲しい」 「さあ・・・考えておこう」 趙雲はちらりと隣を見た。月の光とみまごう淡色の髪が、今は陽光にきらめいている。風になびくその髪が、固そうに見えて実はやわらかいことを知っている。おそろしく強くて、気まぐれなケモノ。 では、お前が、欲しい。今、ここで。 と言ったら、このケモノはどんな顔をするだろう。 毛を逆立てて怒るのかな、と趙雲は思い、この想像にすこし笑った。 「髪が、まだ濡れておるな。長いから、そう簡単には乾かぬか」 馬超が、趙雲の額ぎわの髪に手を伸ばしてくる。 その手をどうしてくれようかと、趙雲は真剣に考えた。
ビジュアルイメージは5なのに、泳げないってありか。。。 ...09.08.05 |