「趙雲、泳ぎに行くぞっ!」 馬超が、誘いに来た。 調練では汗が目に入るのが死にそうに不愉快だと仏頂面をしていたくせに、執務では脳が溶けそうだいやもう溶けているとさんざん駄々をこねて手こずらせたくせに、遊びに行くときのこの元気さは何だ? だいたい、『泳ぎに行こうか?』でもなく『一緒に行ってくれないか?』でもなく、『泳ぎに行くぞ!』で済ませるのが憎い。 馬超にとって泳ぎに行くのは既に決定事項であり、趙雲に知らせるのは事後承諾、断られるとか趙雲が一緒に行かないとか、考えてもいないらしい。 「執務は終わったのか?ずいぶん早いな」 「あ・・ああ。まぁな、終わったぞ」 馬超が目をそよがせる。趙雲はうろんな目を向けた。 「そうだったな。お前の最終兵器が、成都に帰ってきてるんだったな」 「終わったことに変わりはあるまい。俺も、手伝ったしな」 「手伝った、とは何だ。お前の分の執務なんだぞ」 馬超は気まずそうに顔をしかめる。彼の最終兵器であるところの有能な従弟、馬岱は一軍を率いる能力を持ちながら、この高名な従兄の補佐に甘んじ、副官として特に机での執務はほとんど一手に引き受けている。しばらく西方の視察に出ていたが、先日戻ってきたのだ。 「お前は、まだ終わっておらんのか」 馬超が首をかしげる。趙雲の仕事は正確だ。机仕事をこなすのは特別に速いわけではないが、無駄なことをほとんどしないから、結果的に早く片付く。 「終わっている」 「じゃあ、行くぞ」 「お前なあ、馬超・・・」 「なんだ?」 「私の都合を聞け」 「都合?」 「私がお前に付き合わなければならないという義理はない。都合を聞き、できれば一緒に行かないか、と誘うものだろう、普通は」 「そうか、都合が悪いのか。趙雲」 「悪いとは言っていない」 「一緒に、行きたかったのだが。一人で行く気にもならぬし、・・・どうしようかな」 馬超がしょんぼりとうなだれる。もし彼に尻尾があったら、味気なく垂れ下がっていることだろう。 趙雲はばん、と机を叩いた。 「都合が悪いとは、言っていないだろう。誘い方がなっていないと言っただけだ」 「では、一緒に行くのだな!?」 「また溺れられては困る。・・・しょうがないな」 「よしっ行くぞ!」 もし彼に尻尾があったら、ピンと立ち上がって揺れていることだろう。趙雲はため息を吐いて立ち上がり、まず額を護る飾りをはずした。鎧をつけて泳ぐのはもう二度とご免だったので、具足を外し軍装を解く。もとより軽装で現れた馬超は意外にもかいがいしく、趙雲が外した防具を受け取り、卓だの物入れだのに置くということを繰り返している。むろん置き方は適当で、決まった場所にきちんと納めておく主義の趙雲のやり方に合致するものではないが、不器用なりに丁寧で、趙雲の武具に対して敬意を払っているような仕草である。 (まるで、・・・妻みたいだ) その発想は、妻を持ったことのない趙雲を赤面させた。 「これで、良いか」 こまごまとした武具を並べて、馬超が首をひねる。 「・・うん」 本当は、置き方が違うとか、重ね方が違うとか、注文を付けたいことが多々あったのだが。顔を赤らめたまま趙雲は、小さくうなずいた。 成都は、水の豊かな都市である。城門を出てすぐ錦江という川が横切っているし、その支流は城内に引き込まれている。調練が終わったら兵士はみな流れに飛び込んで土埃を落とし、馬を川に入れて水浴びさせたりもする。 だが馬超は城内はもちろん、近郊の川で汗を流すことはない。趙雲の知る限り、彼は肌をさらすのを嫌がっているようだった。 そんな彼が泳ぐとなると、人っ子ひとり訪れない山を分け入った場所になる。入蜀して間もないというのに、馬超が道に迷うのを趙雲は見たことがない。地元の木こりさえ知らないような道なき道を、すいすいと進んでいく。 「いいところを、見つけたのだ」 楽しげな馬超が言う。 「いつもの湖も悪くないが、水が少し濁っているだろう。今度のところは、良いぞ。澄んでいるし、静かで、誰も来ない」 いつもの湖とは、馬超が最初に水に落ちた場所だ。溺れそうになった挙句、泳げないのか?と趙雲に言われた馬超はいたく誇りを傷つけられたらしく、趙雲を誘って泳ぐようになった。蹴落として溺れさせた負い目があるゆえ趙雲は付き合ってやっているのだが、一度溺れかけた者がそう簡単に水に馴染むだろうかと内心ひやひやしながら見守る趙雲をよそに、馬超はあっさり泳ぎを習得し、今ではすっかりはまっている。 「見つけたってな。いつの間にだ?また執務をさぼったのか」 「先日。遠乗りにきた時に。さぼったわけではない。よし、着いた」 きらきらと午後の光が降り注いでいる。湖というよりは川が集まってできた泉で、山から湧き出た水は限りなく澄んでさやさやと泉に流れ込む。山側には緑なす樹木に囲まれた小さな滝まであり、ちょっとした深山幽谷だが、とにかく明るい。 「・・・いい場所だな」 「だろう?」 にこにこと機嫌よく馬超が馬を降りる。馬超は馬を繋いだりしない。鞍も外してやって、放っておく。馬は勝手に水を飲み、木陰に落ち着いてまるで景色を眺めるようにくつろぎはじめる。少し迷ったが、趙雲も同じようにさせた。 「よし、行こう!」 さっさと馬超が上着を脱ぎ捨てる。さすがに全裸にはならないが、肩で切れた袖なしの薄物をまとっただけで、ざばざばと水に分け入っていく。胸は大きく開いているし、下肢も膝ほどしか覆っていない。 あられもない姿に趙雲は呆れた。 「お前・・・城内では武袍をゆるめもしないくせに」 服はゆるめないくせに、暑い暑いと臆面もない罵詈雑言を言い立てて周囲を困らせているくせに。 「人前で肌はさらさない」 「・・・私は人ではないわけか?」 返答はなかった。聞こえてもいないらしい。水を蹴立てて深みへと到達した馬超がざぶん、と水中に沈むのが見えた。すぐに上がってきて髪についた水をぶるぶると振るい落とす。 「冷たいぞ、趙雲!気持ちいい!!」 吼えたかも思うと、すいすい泳いでいってしまった。力強い泳ぎは危なげなく、達者なものだ。 趙雲も上着を落として、水に入った。 山からの流れだけあって綺麗な水だが、そうとう冷たい。城での執務で体にこもった暑気を払おうと、とりあえず水で顔をすすいだ。 「趙雲、趙雲!」 呼ばれて振り向く。 「すごいぞ、ほら!」 馬超がばしゃばしゃと賑やかに水を跳ね蹴散らしている傍で、岩場から何羽のも蝶が飛び立った。黒で縁取られた羽に透きとおる空色の模様が入っていて、優美な姿の蝶だ。それが5,6羽もゆるやかに飛行している。ゆるやか、とはいうが、どう考えても休んでいる所を馬超に邪魔されて飛び立ったのだろう。まとまった数がいるところを見ると、巣があるのかもしれない。 「・・・たいがいにしとけよ」 馬超は容赦ない。もの珍しそうにじっと見ていたかと思うと、蝶めがけて水を吹っ飛ばしながら追いかけている。 木陰の岩場でゆっくり休んでいたのだろうに、こいつなんかに見つかったせいで要らぬ苦労を・・・趙雲はしみじみと、空色の羽の蝶に同情した。 泳ぐというよりものんびりと水につかって、趙雲は涼を楽しんだ。水につけた手のすぐ横を通って小さな魚が泳ぎぬけていく。趙雲が動かないので、魚も警戒心を起こさないようだ。まだ稚魚なのか、緑がかった銀鱗が愛らしい。 (静かだ) せせらぎの音しか消えない。それから鳥の鳴き声。樹々が風にそよぐかすかな音。小さな魚が跳ねる水音すら、鮮明に聞こえる。 「え?」 なんだ、この静けさは。 「・・・・馬超!?」 あたりはしん・・・と静まり返っている。馬超は、潜るのが好きだ。一度溺れかけたくせに、ためらいもなく水中に身を没していく。もう趙雲より巧いかもしれない。だけど、見回しても姿が見えなかった。 山ぎわの滝のほうは、水の色が濃い碧色をしている。それだけ深さがあるということだ。潜っているならば水面に泡や波紋が浮かぶはずだが、それもなく静まり返っている。 血の気が引いた。 「馬超、――馬超!!」 返事はない。趙雲は水を蹴立てて潜った。どこまでも澄み切っていた水は、しかし淵ではそうではない。底に近付くにつれ透明度が減り、切ないような碧色がゆらめいている。光の届かない深遠が、趙雲の体と心を痛いほど冷やした。不透明な碧の視界といや低い水温が、ここはお前の来る世界ではないと、ささやいているようだった。痛む心臓を押さえて、趙雲は浮上した。 「馬超・・・」 息を切らして、趙雲は周囲を見回す。滝壺がもう目の前だ。もっとも濃い、深淵。ここに、彼が――? 潜ろうと、息を吸ったときだった。滝の中に人影があることに、気づいた。 馬超は基本的に、やかましいほど騒々しい気配の持ち主だ。別に陽気でもなんでもなく、横暴で自侭で、稚気にあふれた振る舞いで周囲に喧騒をもたらす。 だが、ときどき彼は、ひどく静かになる。 たとえば、戦いの終わった戦場で。血のように赤い夕陽の当たる城壁の上で。降りしきる雪があたりを真っ白に染める雪原で。頬を切るような冬の風の中で。彼は目を閉じて黙り込む。何もない、表情なのだ。感情の抜け落ちた表情で、唇を噛み締めてじっと佇む。そんな時は誰も、触れられない。 滝の細い瀑布を頭から浴びて、馬超は目を閉じていた。白い飛沫が彼の全身を包み込む。 趙雲は心臓を押さえた。胸が、痛い。なんだろう、これは。 誰も、触れられない、深淵。不透明にゆらめく碧。光の射さない深遠。 馬超が目を開けて、趙雲は息を呑んだ。 「趙雲!」 ぶるりと頭をひと振りして滝を出た彼は、にっこりと笑った。 さすがに体が冷えたぞ、と叫んだ馬超はにぎやかに水を蹴散らして岸辺に向った。通り道の浅瀬で、小さな魚が慌てたように逃げ惑い、水しぶきの飛んだ先で、茶色い鳥が迷惑げに飛び立った。 疲れたような足取りで岸に向った趙雲は、馬につけてきた布を無言で馬超に放り投げた。軽やかに受け取った馬超は、機嫌よく髪や顔などを拭い、バッと布を草むらに敷き込んだかと思うと、ごろりとその上に寝転んだ。 「・・・洗ったばかりの布なんだぞ。草の汁がつくだろうが」 「洗って、返す」 「偉そうに言うな。お前が洗うわけじゃないくせに」 「趙雲?」 馬超が不思議そうに顔を上げた。 「機嫌が悪いな。どうしたんだ?」 「別に・・・」 趙雲は苛だしげに髪を振った。冷たい雫がとめどなく落ちるのがわずらわしい。体を起こした馬超が、趙雲の顔を覗き込んで、にやりと笑った。 「体が冷えたのだな。温めてやろうか?」 「・・・・要るか!」 「そうだよな。良かった。じゃあ頼む、なんて言われたらどうしようかと思った」 くつくつと笑いながら馬超が再び横になる。頭上で組んだ両腕のうえに頭を乗せて、くつろいだ姿勢に、趙雲の胸が波立った。 どれだけ振り回せば気が済むんだ。 思えば今日は、現れた最初から良いように振り回されている。 苛立つ趙雲をよそに、俺も冷えたな、と馬超はつぶやいてぶるりと体を振るわせる。じゃあちゃんと拭いておけ!と趙雲は自分の分の布を馬超に放り投げた。馬超の分は敷き込まれていて、体を抜く役には立ちそうもない。 いつまでたっても動かぬのに苛立って、趙雲は布を取り上げ、まず淡色の髪を拭った。乱暴だな、と横柄につぶやきながらも馬超はされるままになっている。多分にまとわりつく水分を、仏頂面の趙雲がふき取っていく。 体にぴたりと張り付いた薄物を掻き分けて、胸から腹を布で辿ってゆく。 膚のいや白いのがぴりぴりと神経に刺さった。 馬超は、城内ではちらりとも衣服をゆるめない。人前では肌をさらさない、と本人が言った。では、この無防備は何なのだろう。 馬超は、あまり笑うほうではない。なのに趙雲に向って笑うのは何故なのだろう。 目を閉じた馬超の顔。全体としては険しい感じがするほど精悍で男らしいのに、構成する細部をよく見ると、ひとつひとつが繊細に整っている。切れ込んだ眦、高い鼻梁、薄めの形良い唇は、少し開いている―― 趙雲は無意識に唇を舐めた。 ふつりと欲情が、込み上げる。 ここで劣情で押し付ければ、きっともの凄い抵抗に合うだろう。 構うものか、と趙雲は考える。 温めてやろうかなどという下世話な冗談で誘ってきたのは馬超のほうだ。 趙雲の体は冷え切っている。馬超の皮膚も冷たいだろう。それを重ねあえば、どんな熱が生まれるのか。 押さえ付けて、雄の熱をねじ込めば、どんな顔をするのだろう。 貫いて揺さぶれば、どんな声で泣くのだろうか。 「趙雲。お前の方が濡れておるぞ。俺が拭いてやろう」 動きを止めた趙雲の考えにはまったく気づいてないように、今、趙雲の脳裏で貫かれていることに少しも気付いていない笑顔で、馬超が顔を起こした。 咄嗟に反応できない趙雲の手から布を取り、まずは顔、髪、首から胸へと、かいがいしく布を当てていく。 趙雲は、馬超の上にまたがっているような格好だ。この体勢からなら、簡単に押さえ込める。それだけ馬超が、趙雲に対しておそろしく無防備なのである。脳裏の欲望を、実際に遂げることは、容易い。 「趙雲」 呼ばれて、膚がざわりと粟立った。体勢としてはすでに趙雲に組み敷かれた格好の馬超は、静かに目を伏せた。 「・・・趙雲。ここは、蜀は、美しい所だな」 「え、――?」 「このように澄んだ水を湧かせる森は、涼州にはなかった」 涼州。馬超の、失われた故郷。今は敵方に落ち、帰ることはできない地だ。 「蜀の緑は、すごいな。涼州にも樹木がなかったわけではないが、俺の知っている緑は、どこか赤茶けていた。砂塵のせいだろうがな・・・。蜀の緑は透明だ。それがどこまでも続いている。趙雲」 「・・・なんだ」 「感謝しているぞ」 険しいおもむきのある馬超の目が、細められる。 「お前が湖に蹴り落としてくれなければ、俺は蜀の水の美しさは、死ぬまで知らなかっただろう。おまけに徹夜明けで鎧を付けたまま潜って助けに来てくれたしな。・・・ありがとう」 そうして目を閉じた顔は穏やかで小さく笑っていて、趙雲は絶句する。 (ずるい・・) そんなふうに言われてしまえば、脳裏で鮮明に描いていた不埒な行為なんか、できるはずがない。 それどころか。 真摯な言葉に、不覚にも趙雲は胸が熱くなっていた。 我がまま者のくせに。人の気も知らないで勝手に振り回すくせに。―――なんと率直で、優しい言葉を吐くのか。 ひらひらと、一羽の蝶が舞い降りる。さきほど馬超が水でさんざんに追い回した蝶だ。 馬超が軽く口笛を吹く。馬や鳥でもあるまいし、口笛などで蝶が寄ってくるもんか、と趙雲は思ったが、空色の蝶は馬超が差し出した指に、ひらりと舞い降りてとどまった。
蝶の数え方は、1頭、2頭、が正式らしいです。1頭、2頭って牛みたいだな・・という管理人の独断で1羽、2羽採用。 ...09.08.08 |