向いに座った躯がびくりと強張ったのに、趙雲は気づいた。
周囲を見渡すも、のどかな光景である。
立った劉備は家具にもたれかかって諸葛亮に話しかけているし、諸葛亮は微笑んで何か答えている。
部屋に隅ではちいさな炉に火が入り、銅製の鼎に湯が沸いている。窓が開いているので、湯気の熱気は篭っていない。では窓の外になにか不穏な気配でもあるのかというと、まったくない。涼やかな風が吹いていて、庭先は静まり返っている。
ぐるりと景色を一巡して見渡しても、この勇将が身体を大きく跳ね上がらせた理由というものが、見つからない。
勇将の名は馬超孟起。
せんだって成都を制圧した戦いにおいて、戦場で敵として出会ったのだが、しばしのち劉備に臣従したので仲間になった。
益州、いわいる蜀と呼ばれる地を得た劉備は地盤を確定し、勢力を伸ばしている。
蜀の治世もだいぶ落ち着いた頃合いをみはからったように、諸葛亮から「良い茶があるので是非ご馳走したい」との誘いに、連れ立ってやってきたのだった。
連れ立ってやってきたといっても馬超は無口な男で、練兵場からただ並んで歩いてきたというだけだ。


「いろいろ研究してみたのですが、茶の栽培に適する土地というのは、気温が高めで雨が多く、かつ昼夜の寒暖の差が大きい山間部ほうが品質が良いようです。蜀の山は、この条件にぴったり当てはまりますから、良い茶をつくれる期待ができますね」
「おお、そうか!都にいたとき、茶はとても流行していた。中原では栽培できぬらしく、南からのわざわざ運ばせていたので高価であったしな。蜀で茶が生産できるのなら、国を富ませる良い資源になるかもしれないな、諸葛亮」
「そうですね、殿。しかし茶をたしなむときは、座ってどうぞ」
うむ、と劉備が茶にはいった器を持って卓についた。
すかさず趙雲は立ち上がり、礼を取る。
そもそも主君が立っていて臣下が座っていたというのはおかしな状況だが、茶の支度する諸葛亮は別として、はじめ3人とも座っていたのに、茶が出てくるや劉備が立ち上がってしまったのだから、しょうがない。
諸葛亮も、冷めないうちに飲んでくださいと言うし、趙雲は馬超と向かい合って座ったまま、出された茶をおとなしく飲んでいたのだった。
趙雲が立ち上がると馬超はきょとんとし、ついで慌ててがたがたと立ち上がろうとしたが、その時にはもう劉備は座っている。馬超はおとなしく椅子に座りなおしたが、ばつの悪そうな表情に趙雲の方がはらはらした。
趙雲はこれまで馬超と同席したことは何度もあるが、宴会の席でも、軍議の場でも、調練の合間でも、馬超は他人と距離を取り、劉軍の将とうちとけなかった。趙雲に対しても同様である。
馬超の武名があまりにも高く、馴れ馴れしく彼に近寄るものがいないこともあって、孤立しているというわけではないが、どことなく浮いている。
戦場で出会ったときの気迫は凄まじかったし、同僚となってからも武技の冴えには目を見張るばかりだが、――さきほどの様子を見ると、あまり要領の良くない人なのかな、と趙雲はちらりと思ってしまった。


「これは成都の西にそびえる峨嵋山で、この夏に摘んだ茶です。お味はどうですか、殿」
「うん、うまい!!」
劉備は満面の笑みだ。しかし趙雲が思うに、諸葛亮が煮た茶であるならば、どんな粗悪な安物でも劉備は満面の笑みで飲み干すに違いない。
「趙雲殿、いかがでしょう」
「はい。その、・・・けっこうだと思います」
「いまいち煮え切らない感想ですね」
諸葛亮にかるく睨まれて、趙雲は頭を掻いた。
「私はほとんど茶を飲んだことがなくて。味がどうこうとは、あまり分かりません」
茶は高級品で、庶民の口には入らない。それに茶は南方のもので、北の地で生まれた趙雲は、茶を飲んだことは数えるほどしかない。
「馬超殿は?」
ぎくり、と大きな体躯がこわばったように見えた。
「う、む。・・・けっこうなのではないか」
煮え切らない言葉と態度に、諸葛亮の眉が上がった。だいたい、さっき趙雲の言った言葉そのまんまではないか。
「趙雲殿と同じご感想ですか。・・・お気が合われるようですね」
深く追求しないで、諸葛亮はさっと踵をかえす。
気が合うもなにも、馬超とはまともに話したこともない。
馬超はむっつりと黙り込んでいる。なんだか、大きな獣が無理やり椅子に座らされているみたいだ。居心地の悪さにどうしたらいいのか分からない、というような――と考えて、趙雲は内心で首を振った。
まさか。
馬超は涼州の武門の家の生まれだ。領主でもあった。場慣れしていないなんてありえないではないか。

しばらくして諸葛亮は、さらに茶を満たした碗をもってきた。
「では、こちらはどうでしょう。これは蜀の東、蒙山で初夏に摘んだ葉でいれた茶です」
馬超の身体は強張りっぱなしだ。
諸葛亮が、おのおのの前に茶を置いていく。
「熱いうちにどうぞ」
勧められて馬超はぎくしゃくと茶碗を取り上げた。困惑したようにちらりと趙雲を見る。そんなふうに見られても、趙雲にはわけが分からない。助けを求めているようにも見えるが、いったい――
好みは人それぞれだ。茶がどうしても飲めないほど不味く感じるのなら、遠慮なく言えばいい。
「おお、これもきれいな色だな。いただこう」
煮えたばかりの茶は、もうもうと湯気を立てている。茶碗を取り上げた劉備が、ふうふうと茶を吹いて、ひと口含んだ。
「ほう。こっちはすこしほろ苦さがあるかな。さっきのほうはあっさりしていたが、こちらはくせがある」
劉備の様子を横目で見ていた馬超が、茶碗を口に運ぶ。どことなく、おそるおそる、といった感じで、碗を口もとに持っていった彼は、息を吸い込んだ。劉備殿がやったように息を吹きかけるのかな、と思った時、諸葛亮の声が割り込んだ。
「ふふ。味の批評はともかく、茶を吹いて冷ますのはお行儀が悪いですよ、殿」
「そうなのか、すまん諸葛亮。せっかくの良い茶なのにな。それにしてもそなたの煮る茶は美味い」
「おそれいります、殿」
水と魚に譬えられるほど仲の良い君主と軍師の会話はなごやかに続いているが、馬超は茶碗を持ったまま固まっている。
どうしたんだろうと、趙雲は気が気ではない。
自分の分の茶を、趙雲は茶碗ごとすこし揺らして冷ました。1杯目の茶は金属の器に入っていて、それはそれは熱かったのだ。今回は陶器の碗であるので、それほど熱くはないと思うが、ついやってしまったのだ。
視線を感じて趙雲は顔を上げる。
目を見開いた馬超がまじまじと見ている。
目が合うと彼は小さく頷き、趙雲の真似をするように、ゆらゆらと茶碗をちいさく揺すった。
馬超の手つきは、慎重そのものだった。
慎重そのものであったのに、なぜか――なぜなのか趙雲には見当もつかないのだが、なぜか茶は碗のふちから溢れだしてこぼれた。それも大量に。
うッ・・・という叫びが聞こえたような気がした。それは空耳で、実際の馬超は無言だった。だが彼の表情が『うッ』と言っていた。趙雲は立ち上がりかけたが、馬超に止められた。手をすこし卓から上げたのと、目線だけで彼は趙雲を止めた。
馬超はゆっくりと碗を卓に置き、ふところを探った。手ぬぐいか何かを探しているのだろうと検討がついたが、それは見つからないようだった。ごそごそとしばらく衣服のあちこちを探っていた馬超が、諦めたようにため息を吐く。それがいかにも意気消沈した様子だったので、趙雲まで落ち着かなくなり、自分の着衣のあわせめから手拭きを取り出し、差し出した。
「要らん」
馬超がぼそりと言う。
「しかし・・」
趙雲は目尻を下げた。
「軍師が手ずから煮た茶をこぼすなど、不敬であろう」
手拭いで拭いたりしたら、それがばれると言いたいのだろうが、炉の様子を見に部屋の隅に行った諸葛亮を追って、劉備は席を立っている。二人がこちらに背を向けているのを確かめて、趙雲は声を極小にひそめた。
「今なら、殿も軍師殿も見ておられない。はやく拭いたほうがいい」
「・・・」
む、と言うふうに口を歪めた馬超は、趙雲と手拭きを見比べているだけだ。
仕方なく趙雲は身を乗り出して、まず卓をさっと拭き、布の違う面を出して、馬超の手指をぬぐってやった。
「やけどは、していませんか」
「・・・」
「馬超殿?」
問われて馬超は眉をひそめて、すこし考えた。
「・・・多分。熱かったが、やけどまでは、しておらぬと思う・・」
ぼそぼそと答える。
頬骨がすこし赤くなっている。居たたまれない、という様子に趙雲は気の毒になった。失敗は誰にでもあるものだ。
「あとでゆっくり診て差し上げましょう。見れば、利き手ではありませんか。武人の手に傷など残ってはいけませんから」
馬超はしばしの間ひどくためらっているようだったが、部屋のすみで茶を煮ながらこちらに背を向けて談笑する劉備と諸葛亮の笑い声が聞こえてきたのを機に、ちいさく頷いた。


すっかり冷めてしまった茶を飲んで、早々に退室した。
趙雲は馬超の手が気になっていたし、はじめから居心地の悪そうだった馬超も立ち上がった。
兵舎の近くまで戻ってから、手を覗き込む。
さきほど見たときは赤くなっていたが、もう赤みは引いていた。腫れてもいない。
「大事ないようですね。何よりです」
「・・かたじけない」
馬超ははぁと息を吐いた途端、顔をしかめて口を押さえた。
「馬超殿?」
「い、いや。なんでもない」
「しかし―――」
趙雲は長い黒髪を揺らして、首をかしげた。
「さっき。そう1杯目の茶を飲んだとき、なにかぎくりとされていたようですが。茶は、よほど気に入らなかったのですか?それとも、初めて茶を飲んだので、驚かれたのですか」
趙雲としては、問い詰めようという気はなかった。確かに不審には思ったが、べつに実は茶が大嫌いだったとしても、武将としてはまったく問題ないことだ。しかし馬超は顔をしかめて趙雲をじっと凝視し、諦めたように、ぼそりと言った。
「・・・茶を飲んだことはあるが。西のほうでは、茶には乳を入れるのだ」
「はあ、乳を。なるほど、西では牧畜がさかんと言いますから、お国ならではの飲み方ですね」
「乳はなんでもいい。山羊でもよいし、牛でも羊でも」
「そうなのですか」
馬超は話術がたくみではないようだった。
すこし意外に思い、また話の意図は分からないながら、趙雲は律儀にうなづいた。
しかし朴訥ながら、ききちんきちんと相づちを打つ趙雲と同じくらい律儀に、馬超は話を進めていく。
非常に長い時間をかけて、趙雲は以下のことを聞かされた。
涼州の茶は、軍師のいれたものと種類も、違うこと。軍師殿のいれた茶は緑色だったが、あちらでは黒っぽい色なのだそうだ。
それに、茶を煮ている中に乳をいれて、一緒に沸かす方法もあるのだが、彼の一族ではいつも、できあがった茶に乳を入れて飲んでいたこと。
趙雲は生真面目に相づちを打っていたが、そこまで話した馬超は、痛恨に耐えぬというように顔を歪めた。
「俺は乳を入れた茶しか知らなかったから、その・・・煮えたばかりで乳を入れていない茶が・・あれほど熱いとは、思いもしなかった」
気まずそうに馬超が目をそらす。
しばらく趙雲は黙って考えていたが、―――やがて、思いついて、言った。
「馬超殿。1杯目を飲んだとき、ずいぶん・・その、身体を身じろがせておられたのは、まさか――舌を、やけどしたからですか。もしかして貴方は、熱いものが苦手だという――」
馬超があまりにも赤くなったので、趙雲は動揺した。
「猫舌なのですか」
馬超がついに顔をそむける。趙雲はますます狼狽した。
「え、でも、――猫舌でもいいではありませんか。そんなに恥ずかしがらなくとも。猫舌で困ることなんてありませんよ。そうだ、たいていの獣は猫舌なものなのですから、問題ない」
「き、貴殿・・・俺を馬鹿にしておいでか!」
必死にフォローしたのに怒らせてしまって、趙雲はすこし慌てた。
「まさか!馬鹿になど、しておりません!――そうだ、馬超殿!舌は、舌は大丈夫なのですか!?やけどの具合は?確かめた方がいいのでは」
「よ、寄るな!舌のやけどの具合など、どうやって確かめるというのだ!」
「ここまで聞いて放っておくわけにもいかない。ちょっと見るだけでも」
「要らんっ」
こいして、わたくたと攻防は、日暮れまで続いたのだった。




その頃、もとの部屋では。
「お茶菓子もたくさん用意しておりましたのに。さっさと二人で出て行っちゃいましたねえ・・・」
卓に片肘をついた軍師がつぶやく。
「ははは」
劉備は入れたばかりのお茶をふうふう吹き冷まして飲んだ。今度は諸葛亮もとがめない。
「良かったではないか。どうやら仲良くなりそうじゃないか、あの二人は」
諸葛亮はついた肘を抜いて身体を起こし、額が触れ合うばかりに身を乗り出した。
「そうなるとお思いになりますか、我が君」
「なるだろう。というか、馬超が我が軍になじんでいないようだとお前は案じるが、時間がたてばなるようになる。心配しすぎだぞ、孔明」
「なにを仰せですか。あの二人が仲良くなればいいなぁと言ったのは貴方のほうではありませんか」
「言った言った」
劉備は悪びれない。諸葛亮は、声をひそめた。
「仲良く、なりすぎるかもしれません・・・」
劉備がふと黙る。黒々とした瞳孔をぐるりと一周させて、寵臣を見て悪戯っぽく笑った。
「我らのようにか、孔明?」
「・・・・」
軍師は答えない。透き通るような黒い双眸を、細めただけだ。
「仲良くなりすぎた場合、どっちが上になるか、賭けようか?」
「下品ですねぇ・・」
「なにを言うか。趙雲が馬超の手を握ったとき、噴き出したのはお前のほうだぞ。あれには私もおおー!と思ったが、噴き出しはしなかった!」
諸葛亮は真顔を保とうとしたが無理で、思い出し笑いに肩を揺らした。
「それにしても、馬超があれほど不器用だとは思わなかったな。趙雲は気になって仕方ないようだったし、馬超が赤くなっていたのは、恥ずかしかったからなのかな・・・」
「よく見ておいでですね、我が君」
「お前もしっかり見ていただろう」
「それは、見ておりましたけど」
「背も体格も同じくらいで、武技もほぼ互角――だが、これはひょっとして、下になるのは―――」
そうして談笑は、日暮れまで、続いた。




...09.09.04
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