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その男はパチンコ屋で働いていました。
けれど、ヤニ臭い淀んだ空気が嫌いだったそうです。
その男はゲームが好きでした。
なんでも、現実から逃避出来るという事だそうです。
その男は母の作るコロッケが好きでした。
だから、お袋の味を聞かれればコロッケと答えたでしょう。
その男は風俗が好きでした。
たとえ、気持ち良くなれなくても話のネタになるからだそうです。
その男は酒が好きでした。
ただ、一人酒はあまり好まない様で一人で飲む事は殆んど無かったみたいです。

どこにでもいる、少し自分に自信の無い男。
そんな男は常々、考えていました。
この人はこんな時どう思うのだろうと様々なシチュレーションを…
出勤する朝の駅の待合室でパンツとTシャツだけで眠っている、恐らくは酔い潰れている男を見てこの男は目が覚めたら何を思ってどう行動するのだろうと…
残念ながら男は、酔っ払い男の結末を見届ける事は出来なかったのです。
なぜなら、電車が来てしまったからです。
ただ、電車の中で男は考え続けるのです。
自分があの男の立場ならどうするのだろうと…
恐らくはトイレに隠れて頼れる者に電話を掛けて服を持って来てもらうだろう。
だが、それは普通なのか?
自分だけが考えうる異常なのでは無いだろうか?

男は他人の言う普通というものが甚だ理解出来ません。
だから、他人が何を見てどう思うか、こういう状況の時どうするか、そればかりを考えて一日を過ごします。
他人の気持ちや考え方、いくら考えども答えは出ません。
だから、人から勧められた事は何でもやってみてその人の考え方を知ろうとしてきました。
煙草もパチンコも風俗もそうでした。
今までは不浄のモノという考え方が強く手を出しませんでしたが人に進められるとその人の気持ちを理解出来るのだろうと進んで試してみる事にしました。
煙草は残念ながら好きになれませんでした。
吸いこんだと同時に咳きこみ、口の中から吐き出される悪臭に眩暈を覚えた程でした。
結局、それを美味しいと感じる人の気持ちは解りませんでした。
だから、男は煙草を吸う人間とは一生解り合う事が出来ないのだと思いました。
パチンコは楽しくもつまらなくもありませんでした。
ただ、ハンドルを握って座っているだけ。
あとは、運が良ければ図柄が揃い、玉が出る。
周りの音がうるさいというのは特に気になりませんでした。
ただ、少し生の実感が薄れた時間が流れるだけ…
あっと言う間にお金が無くなり日が暮れ家に帰り寝て一日が終わるという無意義な時間を過ごさせてくれる場所。
ただ、男には有意義だと思える時間が無い為、パチンコを無意義というのもおかしい気がします。
そもそも、意義という概念が無い者には有意義も無意義も無いのだろうと結論付けたのでした。

風俗は好きになれました。
あの汚れきった雰囲気は男が心を休める事が出来る唯一の場所だったのです。
一夜限りの誰とも知れぬ者との関わり合いはただ、肌を重ねて一時の快楽に酔いしれられる。
その間は自らが普通か異常か等と考える必要も無く、目的がただ、快楽を得るためなのだから、話さぬ以上は、そこにそれ以外の心はいらぬのだ。
そして、男は風俗という場所で心を休めている自分を客観的に見て自分と言う人間の堕ちきった様を見るのが何よりも好きだった。
こんなところで心が休まるなんてクズだ。
クズには人の考えている事なんて解らなくて当然だ。
そう、自分に都合の良い言い訳をつくるのでした。
そして、風俗に行ったあとは必ず飲むのだった。

好きでも無い一人酒。
いつまでも夢の中にいる心地。
風俗好きの人の気持ちは解る様になったと思う。
ただ、自分の気持ちと他の人の気持ちは同じなのだろうか?
それが解らない。
人と共に生きていかねばならぬのに人の気持ちが解らない。
常に人と関わらなければならないのにその人の本心が解らない。
誰であってもそうなのだろうが私にはそれが酷く不安で酷く恐ろしい。
まるで影の様に離れず解らず解られずに不自由無く生きていく事が出来ればどれ程良いだろうか?
そう願っても身体があり心がある。
それも、異常かも知れない心。
ただ、普通である可能性もある。
もし、私の心が普通であったとすれば、この世に生きる人間は皆、自分の様に不安を抱き続けて生きているのだろうか?
自分の考え方感じ方に疑問を持ち、世間からはぶられる事に恐れ、その中で普通というモノを模索し、人の心に怯え、人の真似事をし、普通の人間になりたいと願い、生き続けているのだろうか?
次から次へと沸いてくる疑問に頭を傾げながらテレビを付けた。
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