▼1
「………」


夜間勤務を済ませ、ともすれば塞がりがちな瞼を半ば強引に引き上げながら、セイラ・マスは自宅のドアを開けた。
ちょっとお茶でも、とリビングに踏み込んだ途端目に入った光景は。
毛足の長いラグマットの上に、だらしなく寝っ転がる兄と家族同然の友人の姿だった。
寝不足の所為かくらリと眩暈までしてきそうだ。
二人の周りには何本もの空の酒瓶が転がり、着のみ気のまま泥酔して寝てしまった様子が有々と見てとれる。
セイラは溜息をついた。
ここでの暮しにも慣れたのか、次第にごく一般の人間のような姿を見せる兄に、安堵感を覚えるはするものの。
常に無い光景を目の当たりにすると、やはり妹としては呆れるし、女としてはウンザリするものだった。
アムロと仲良く寝ているのだが、アムロの頭はシャアの腹の上に乗っかっていて大の字だし、シャアはシャアでシャツははみ出てグシャグシャ、あろうことか片足をソファに乗せたまま熟睡している。
辛うじて膝掛けを被ってはいるが、寒さも気にならないくらい飲んでいたのだろうか。
そっちこっちに脱ぎ散らかされている二人分の靴と靴下を見て、セイラは二度目の溜息を零した。
(これもいい傾向だと思いたいわ…あの兄さんがこんな無防備な姿を見せるのだから)
ズキズキと痛むこめかみを押さえて、セイラはケトルに水を汲んだ。
お湯を沸かしてコーヒーを淹れれば、香ばしい香りで寝坊介二人も起きるだろう。
そうしたら、伸びた金髪に寝癖を拵え行儀悪く寝ていた兄と、兄の上で大の字で寝ていたアムロをからかってやりましょう、とセイラの口元が綻びる。
(一体どんな顔をすることやら?ふふ、楽しみだわ兄さん。貴方の人間臭い顔が見れるなんて)
シュンシュンと湯気を立て始めたケトルを外し、丁寧にドリッパーからコーヒーを落とす。
辺りにコーヒーの香りが漂い始めた。
フローリングに転がる二人にも、この香りは届いているだろう。
オープンキッチンからリビングの二人を眺めながら、セイラは欠伸を噛殺した。




(…いい香りだ、誰かコーヒーを…?…うん?重いな…)
先に目を覚ましたのはシャアだった。
顔にかかる朝日が閉じた瞼に眩しくて、手を翳して身を捩ろうとする。が、何かに伸し掛かられて動けない。
漂うコーヒーの香りが意識を覚醒させてゆき、シャアは目を眇めながら僅かに頭を起してみた。
仰向けになった自分の腹の上、こちらに顔を向け、すやすやと気持ち良さげに眠っているのはアムロだった。
寝起きのぼんやりした頭に、昨晩の次第が甦ってくる。
(ああ。二人で飲み比べしてそのまま寝てしまったのか…)
シャアは元来神経質で、他人が傍にいると警戒心が先にたって眠れなくなる性質だった。
父を暗殺されたあの日から、幼少時に経験した逃避行から、熟睡はしたことが無い。
常に回りに気を張り巡らせ、母と妹を護ろうと必死だった。長じてからは己の素性を知らしめないよう、細心の注意を払って行動していたから。
なのにここで暮し始めてから、特にアムロが近くに居ると思うと何故か熟睡できた。
不可思議に思いながらも、熟睡した後は清々しくて、生き返るような気持ちでいた。
寝乱れた金髪をワシャワシャと掻き乱しアムロに手を延ばそうとした時…キッチンから声がかかった。

「おはよう、兄さん。御機嫌如何かしら」

はっとして振り返れば、両手にマグカップを持った妹が、少しやつれた面持ちで歩み寄ってくるところだった。

「アルテイシア…帰ってたのか」

肘から下をついて辛うじて上体を起したシャアに、セイラは苦笑してみせる。

「ええ。お茶を飲もうと入ってきたら、仲良く眠っているのだもの。あんまり気持ち良さそうに寝ていたから起すに忍びなくて」

だからコーヒーに手助けして貰ったの、とシャアのカップを手渡された。

「気遣いはいいから起してくれ…すまない、後で片付けるよ」
「ええ、そうね。でも、こんな兄さん初めてね。髪もシャツもグシャグシャ、靴下は明後日の方に飛んでるし…」
「頼むからそれ以上言わんでくれないか」

カップを手に身体を起すと、腹に乗ったアムロの頭がずり下がり、シャアの脚の上に留まった。
硬い筋肉の上に落ちた所為で寝心地が悪くなったのか、アムロも「うう」と唸りながら目を開けた。

「目が覚めた?おはようアムロ、兄さんの上はそんなに寝心地が良かったのかしら」
「アルテイシア、その言い方は語弊がある」
霞む目をこすって視界を晴らすと、逆光に浮かぶのはシャアによく似たセイラの顔。
(…あれ?セイラさん?シャアは…?)
慌てて首を回すと広がるのは皺の寄った白いシャツ。それを上に辿れば、寝癖のついた髪もそのままなシャアの顔。

「え?ええ?」

ガバっと跳ね起き辺りを見回すと、一気に血が頭に駆け上るようだった。

「あの、もしかして…膝枕で寝てた、とか言わないよね…?」

(聞きたくない!認めたくない!でも確認しないと!)
アムロの恐る恐るといった問いかけに、セイラはすっぱりきっぱり答えてくれた。
それはもう、いっそ清々しい程に。

「いいえ、膝でなくて兄さんの上で寝てたわよ?」
「だからアルテイシア、それは語弊があるというのだ…違うぞアムロ、誤解するな。正確には私の腹の上に頭を乗せていた、だ」
「どっちも大して変わらないじゃないか…」

明らかにセイラは自分達をからかっているのが解って、アムロはがっくりと頭を抱えた。
(うわー、そんなの見られたんだ…セイラさんに…しかもこの惨状…)
酒瓶は転がる、靴は転がる、靴下も放りだしてあるでは、綺麗好きなセイラに怒られても仕方ない。

「ごめんね、セイラさん。夜勤明けで疲れてるのにこんなんで…」

すまなそうに自分を見上げるアムロが可笑しくて、セイラは噴出していた。
まるで、毛足の短い子犬が飼主に叱られたような様子だと思った。
アムロが紅茶色をした小柄なダックスフントなら、シャアはさしずめ緩やかな巻き毛のゴールデンレトリーバーといったところだろうか。
(すると私は…?)
れっきとした人間である自分達を、動物に例える自分の想像が可笑しかった。
だが垂耳を更に垂下げて、上目遣いで叱られるのを待っている風情の、兄と友人が可笑しいやら可愛いやらで、セイラは疲労が癒されるのを感じていた。


スポンサード リンク