▼1
「シャア…!」



玄関近くからアムロの切羽詰まった叫び声が聞こえ、同時に、背筋になんともいえない薄ら寒さを覚えたシャアは書斎を飛び出した。
足許で大人しく蹲っていたアストライアも、機敏な動作で立ち上がると主の後を追う。
シャアの仕事場兼書斎は廊下の突き当たりにある。
昔住んでいた、アンダルシアのプール付きの豪邸に比べれば玩具のような家だが、それでも突き当たりから玄関までは多少の距離がある。
シャアとアストライアは、その距離を文字通り駆け抜けた。
アムロの只ならぬ声と首筋から背中を這いずる悪寒が、シャアの気を波立たせていた。

「アムロ、どうかしたのか!?」

玄関を入って直ぐの明るいリビングから、「こっちだ、シャア!」とアムロの応えが聞こえてきた。
観葉植物の陰にあるソファの背凭れから、アムロの紅茶色の髪が覗いている。
垣間見えた姿からは、どこかを怪我している様子は見られない。
ほっとしたものの、シャアの悪寒はまだ消えない。
ではどうしたのか?
シャアが口を開く前に、アムロがシャアを振り返る。

「シャア、セイラさんが倒れた」

眉根に深い皺を寄せ、心痛を絵に描いたような表情のアムロは、ソファに寝かせたセイラに寄り添っている。
急いで回り込むと、真っ赤な顔をしたセイラがソファに寝かされていた。
どうやら高熱を発しているらしく、白磁のような頬を薔薇色に染めて苦しげな呼吸をしている。
医師であるセイラが自分の症状を軽んじていた筈はないのだから、これは突発的に罹患したものとシャアは判断した。
額に手を当てると、それだけで熱の高さが解る。
シャアのひんやりした手が気持ちよかったのか、きつく瞼を閉じていたセイラがうっすらと目を開けた。

「アルテイシア、気がついたか?」
「セイラさん!」
「にいさん…アムロ?私、どうかして…?」
答える声にも張りはなく、熱で潤んだアイスブルーの瞳が揺れている。
いつも気丈なセイラの、弱った姿を初めて目の当たりにしたアムロは、少年の頃に抱いていた淡い恋心が意識の底から浮き上がるのを感じていた。
セイラの傍に躊躇なく跪くシャアを見ると、何故か無性に腹立たしく、同時に申し訳なく思うのだった。
何故かはアムロは気付かない。
元々、自分の感情を深く追求していくのは苦手で、わからないものは考えるだけ時間の無駄と手をつけないからだ。
アムロの気持ちを代弁すれば、シャアに対する腹立たしさは嫉妬、申し訳なさはふと思い出しただけの感情でも、シャアへの裏切りにも思えるからだろうか。
アムロは複雑な心境そのままの表情で、寄り添う美麗な兄妹を眺めていた。

「アムロ、そんな悲痛な顔をしなくてもよくてよ?…大丈夫、只の風邪だわ。ふふ、こういうのって医者の不養生と言うのかしら?」
セイラが腕を伸ばし、アムロの頬を細い指でつつく。
姉が弟にするような仕草が、今のアムロには救いだったかもしれない。
現実に引き戻す為の。
「セイラさん無理しちゃダメだよ…お医者さんなんだから、おちおち寝ていられないだろ?」
「そうだアルテイシア、アムロの言う通りだ。休めるときはきちんと身体を休める、それも努めではないのか?」
二人に同じことを言われ、セイラは苦笑する。
この無茶しかしてこなかったような二人に、自分が諭される日がこようとは夢にも思わなかった。
「そうね、貴方方の言う通りね。ご免なさい、もう無理はしないわ…無理が効く歳でもないことだし、ね?」
熱が上がったのか、赤く染まったセイラが悪戯っぽく笑う。
「軽口を叩けるなら大丈夫、と言いたいところだが…アルテイシア、今日は大人しく寝ていたまえ。仕事は勿論、トイレ以外で起き上がるのは禁止だ」
「いつからそんなに過保護におなり?兄さん…」
「…お前は昔、よく熱を出しては私のベッドに潜り込んできただろう。看病は私の役目だった筈だよ」
「そうね…お父様が大怪我をした時も私は熱を出していて、兄さんが一晩中傍にいて護ってくれたのよね…」
「…貴方達って、ホンットに仲の良い兄妹だったんだねぇ…」
知られざる二人の過去を垣間見て、敵味方に引き離されざるを得なかった現実がアムロに伸し掛かる。
自分が想像するよりももっと、もっと辛くて悲しい思いを抱えながら過ごしていただろうと想像すると、自分はなんと恵まれていたか。
コロニーに出てからは父親とのみだったが、平穏無事な生活を送っていられたのだから。
絶えず命を狙われ監視され続けた二人には、他人には窺い知れない絆の深さがあるのだろうと推察された。
元々冷静沈着を絵に描いたような男ではあったが、だからこそシャアは、こういう時も落ち着いて対処できるのだろう。
「アムロ、すまんが荷物を持ってきてくれないか。それと冷蔵庫から冷却シートを」
シャアはセイラを横抱きに抱き上げ部屋に向う。
「ああ、わかった」
「ご免なさいね、アムロ」
こんな時でも気遣いを忘れないセイラを、昔のままだと嬉しく思うアムロだった。
スポンサード リンク