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「シャア、居るかい?!」



勝手知ったるナントヤラ。
この表現そのものといった風情で、焦げ茶色のくせっ毛に落ち葉を絡みつかせたアムロが、勢い良く駆け込んで来たのは、とある祝日の昼下がり。
特に予定もなく、妹も日勤で出掛けた一人きりの休日を、シャアは惰眠を貪ることに費やしていた。
暖炉では赤々と薪が燃え、風邪予防と乾燥防止にかけられたケトルからは、白く温かな湯気が立ち昇っている。
日差しも暖かくて絶好の昼寝日和と、シャアはリビングのソファにごろりと寝そべっていた。
その姿は、およそ普段の彼からは信じられないようなもので。
ラグマットの上には無造作に脱がれたスリッパと靴下が転がり、クッションを肘掛に重ねた上に頭を乗せ、もう一方の肘掛に両脚を乗せている。
長い脚はソファに納まりきらず、脛の半分から下が宙に浮いている状態である。




辛うじて体には温かな色調のチェックのケットを掛けているが、分厚い本を顔に乗せ、これまた長い腕を床に投げ出して眠っている姿は、どこをどう見てもあのネオジオン総帥・赤い彗星には見えなかった。
しかも無用心に鍵は開けっ放しときた。
生粋の軍人で腕っ節も申し分ないのは理解しているが、ここまで無防備な男だったかと、アムロは我が目を疑う。
自分の知るシャアは、味方にさえも不用意に懐を見せない男だった筈なのに。
いつも薄い膜を張ったような、不透明な状態で他人に接していると思っていたのに。
(いくらなんでも無頓着過ぎないか、これ…)
もしここに、連邦やジオン残党の手が伸びたらどうするのだろう。
そんな思い返したくもない心配が、アムロの胸に湧き上がってしまう。
取敢えず今する事は。
否、すべき事は、熟睡モードから今だ覚めやらぬこの伊達男を、叩き起こす事だろう。



「シャア!起きろ!!」
アムロの怒声は広いリビングに響き渡る。
耳元で怒鳴られたシャアは、文字通り跳ね起きた。その拍子に顔の上の本が、音を立てて床に落ちる。
「うわっ、折れる!」
「そこかよ」
自分を認めるより先に、落ちた拍子にページが折れるのを心配するシャアに、アムロは溜息まじりで呟いた。
「おや?アムロ、どうした」
大事そうに本を抱え、ソファに座りなおしたシャアが、やっとアムロの方を見た。
白いリネンのシャツに紺のセーターを合わせ、ストレートのブラックジーンズに裸足のシャア。
(全く、この人は何着てもサマになるよなぁ…)
真っ赤な軍服も似合っていたけれど、こんな洒落っ気のひとつもない服装も酷く似合うと、アムロはぼんやりと考えていた。
黙り込んで自分を見つめるアムロをいぶかしみ、「アムロ?」と呼びかけると、はっと我に返ったようだった。
「どうしたね、黙り込んで。来るのも気付かず寝ていたから怒ったのか?」
それはすまなったな、とふわりと笑うシャアの目前に、アムロはジャンパーの中に抱え込んでいたモノを突きつけた。
いきなり視界を埋めたのは濃い金色の塊で、目を見開くシャアの鼻先を、生暖かいモノがぺロリと擽った。
「アン!」
目の前の物体から聞こえてきたものは、子犬の鳴声だった。



「吃驚した?」
声もなく金色の子犬を眺めていたシャアは、そうっとアムロの手から子犬を受け取ると、優しい仕種で腕に抱いた。
「どうしたんだ?まさか盗んできたとか」
「そんなワケないだろう!…俺をどう見てるんだよ、失礼だな」
「はは、すまない。冗談だよアムロ」
「貴方が冗談を言えるとはね…流石の俺も吃驚だ」
「それこそ失礼というものだよ、アムロ君。私だって冗談の一つや二つは言えるさ…その機会が無かっただけで」
憎まれ口を言いあいながら、シャアは腕の中の子犬をあやしている。
顔の高さに持ち上げて、小さな舌が鼻や口元を舐めるのに任せている。
眼を細めて愛おしそうな表情に、ツキリとアムロの心に棘が刺さる。
(…犬っころ相手にそんな顔するなって。俺にだって見せてない顔しちゃってさ…)
何となく面白くない。アムロは子犬に僅かな嫉妬をしていた。
「ところで。この子はどこの子だい?見たところ血統書付のようだが」
「え、解るのか?」
「ああ。生後2ヶ月といったところか。固太りして毛色もいい。鼻も綺麗に濡れているし、目もキラキラしている。肢も太いからかなり大きく育つぞ。育ちがすこぶる良いな。犬種はゴールデンレトリーバー」
「詳しいな…シャア」
「こう見えて私は結構、動物は好きなのだよ。特に犬は人を裏切らない。愛情を掛ければ掛けた以上の愛情を返してくれるからな」
「人間不信者の言いそうなことだな、シャア?」
「ああ、ご明察だよアムロ。腹の底の真っ黒な人間なんかより、余程愛すべき存在さ」
「俺達もその対象なのか?」
「まさか。そう思い込んでいたのは嘗ての私であり、今の私はそれを否定することに吝かではない。市井に生きる人々は概ね善良だということも、この年になって初めて知ったのだからな」
周りを取り巻く人間の質の悪さが、シャアを復讐に追い立てたのだろうと、門外漢のアムロでも想像がつく。
だがセイラを見る限りでは、悪い人間ばかりでもなかっただろうと思う。
セイラの真直ぐな気性は、育ての親がしっかりしていたことの証拠でもあろうから。
シャアがそう育たなかったのは、切れすぎる頭脳と持って生まれた才能が、そこに留まるのを許さなかったからかもしれない。
全てがシャアの責任ではないが、ほんの少しでも俗人であったなら、シャアの人生はもっと幸せだったかもしれなかった。
「…今はちゃんと解ってるんだから、それでいいじゃないか。違うか?シャア」
声のトーンが僅かに下がり、声にも目にも労わるような色を持つ。
「そうだな…怖い妹と元・宿敵のお陰でな」
シャアが屈託無く笑うのが嬉しかった。

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