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パシリ、と彼女の尻を叩く音がする。何をやったか、とアムロが振り返れば、シャアのシャツの腰の辺りが泥で汚れていた。
どうやらはしゃぎすぎた彼女が飛びついてしまったようだ。
シャアは殊の外、飛びつく行為を窘める。
それは大型犬に跳びかかられて、人に怪我を負わすことへの危惧からくるものだが、少し厳しいんじゃないかとアムロは思う。
何しろまだ生後3ヶ月過ぎなのだ。じゃれてはしゃいで遊びまわるのが仕事のようなものだろう。
「シャア、アストライアはまだ子供だろ?子犬がじゃれて飛びつくのは仕方ないんじゃないのかな」
ソファの背に上体を凭せ掛けて、アムロはシャアとアストライアを眺めていた。
シャアの服にも頭にも、アストライアの毛がくっついている。
それはシャアが躾の時間以外では、転げまわって一緒に遊んでいるという証拠でもあった。
動物を飼育したことのないアムロには見抜けなかっただけだ。
「アムロ、成犬になってからでは遅いのだ。”やっていいこと”だと誤解して、処構わず誰某構わず飛びつく犬になってしまう。それが小さな子供だったらどうするね?自分より大きな犬に襲われたと感じ、犬を恐れるだろう。取り返しのつかない怪我を負うかもしれない。そうしたら、大概の犬は毒殺される運命にある。
怠惰な飼主の所為でな。噛み癖も無駄吠えも同じことが言える。そんな犬に育ってしまったら不幸なのは人ではなく犬だ。弁明すら許されずガス室に送られる羽目になる。折角生まれてきて、無知な飼主の為に死んでいくのか?何のために生まれてきたのだ?
ペットと定義されるものの役割は、人間に癒しと安らぎを与えるものだろう。だが犬は、その能力の高さに於いて他の追随を許さん。様々な場面に於いて、唯一人間の補助が出来る存在を、みすみす無駄死などさせたくはないのだよ。
私はもう二度と大切なものを失いたくない。だから、子供のアストライアには悪いが躾だけは厳しくするのだ、理解してくれたまえ」
シャアの言葉は余りにも正鵠を射ており、アムロには反論が出来なかった。
猫っ可愛がりされただけで碌な躾も受けられず、『煩いから』とか『噛み癖が酷いから』の理由で、毎年何万もの犬が処分されていると聞く。
人間の子供に躾が必要なように、人との生活に密接な繋がりを持つ犬にこそ、厳しい躾は必要なのだった。
例えそれが、子犬時代の無邪気で幸せな一時を、ほんの少し犠牲にするものであったとしても。


「そうか…今の内に覚えておかないと、不幸になるのはアストライアなんだ…ごめん、シャア。俺知らなくて」
「いいさ、知らないことは罪ではない。まして動物を飼育したことがないならば、それは当然の解釈というもの。気にすることはない」
アストライアは自分が話題の中心にいるのが解るのか、しきりに尻尾を振っている。
だが彼女はシャアの左の足許で、きちんと<伏せ>の姿勢を取っていた。
大きな真っ黒い瞳をキラキラと輝かせて、昂然と首を上げてシャアを見つめている。
その目には不満など微塵も感じない。ただ、主であるシャアに対する愛情と尊敬しかなかった。
「アムロ、見ていてごらん。アストライア、<Stand up>」
シャアの号令でアストライアはすっと立ち上がる。視線はシャアにむけたまま、主の指示をじっと待つ。
シャアも又、アストライアの目を見つめたままで、次の指示を出した。
「<Go>」
シャアが歩くとぴったりと左側に寄り添って歩く。同じ速度、同じ位置で。
右に左に踊る様に方向を変えるシャアと、寸分も違わず付いて行くアストライアは、端で見ていてとても美しかった。
「まるで社交ダンスしてるみたいだな…」
ここにタンゴでも流せば、シャアとアストライアの情熱的なダンスが拝めそうだった。
思わず感嘆の声が上がったところで、シャアは<Stop>の指示を出した。すかさずアストライアは行儀良くお座りをする。
「これまでの成果だ、どうかね?」
「凄いよ!素晴しい成果だ。アストライア、偉いね。よく頑張ったなぁ!」
拍手喝采を送るアムロを指差して、シャアが小さく<Go>と言うと、アストライアはとてとてとアムロに走り寄って来た。
そのまま足許でお座りをして、ほんの少し小首を傾げる姿が、アムロのツボに見事にハマってしまった。
真っ赤な皮製の首輪の中央で、小さな金色の星が揺れている。それはアムロからのプレゼントだった。
『もっと褒めて?』
そう言われているようで、アムロはソファから降りるとわしわしと撫で捲った。
「お前はお利口だね、アストライア!将来が楽しみだなぁ、なあシャア。近所の雄犬にモテまくるぞ〜!どうするんだ?お父さん」
撫でられていても、アストライアはじっと動かない。尻尾を忙しく振って嬉しさを表現しているのみ、だ。それはシャアの許しがないから。
「父さんは許さんよ。まして野良になど言語道断だ。アストライア、”勉強の時間”は終わりだよ、好きにしなさい」
その言葉を聞いた途端。
アストライアは千切れんばかりに尻尾を振って、アムロに前足を掛け、顔中を舐め捲る。
これからは遊びの時間ということを十分理解している辺り、流石シャアの”娘”だと思った。
実に公私混同のケジメがしっかりしている。
段々重くなってきたアストライアに全体重をかけられて、アムロはカーペットに転がった。
「うわ、重くなったなぁ!」
「その言葉は女性には禁句だぞ、アムロ。決して体重超過ではない、むしろ軽いほうだ」
「え、犬にもそんなのあんの」
「あるとも。アストライアは食が細い。そのくせ遊びたがりだから、散歩にいくとじっとしていない。私の体力増強に一役も二役もかってくれているが、摂取カロリーよりも消費カロリーの方が多いから太れないのだろう。
勉強時間以外でこうして十分遊んでいるから、少しくらいスパルタ教育したところで、拗ねるような我侭さも持っていないしな。
才色兼備だから、もう少し大人になったらブリーダーから引手数多だろうな」
目を細めて誇らしげに笑うと、シャアは胡坐をかいてアストライアを膝に乗せた。
するとどんな魔法を使ったことやら、アストライアは大人しくシャアに抱っこされている。
時々首を伸ばしては、シャアの手や口元を舐めて甘えている。
その様子があまりにも人間の女性のようで、
(なんか、妬ける…)
ドキッと心臓が撥ねて、アムロは慌てて話題を逸らした。あのまま見ていたら、心臓に悪い考えしか浮かばなそうだった。
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