1999年のこと。
2011/5/7 21:13
♪ひなげしのページ♪ |
2009/1/12「見上げた空に。」 お・も・い 2007/10/25「見れない窓」 お・も・い 今夜は、風がひゅ〜ひゅぅ〜とないているようだ。 お月様は天高く周りを照らしている。 昨年〜〜9月末より、なみちゃんは本当に久しぶりに・・・ 「ショート入院」をしていた。 私の「ケアマネ受験」のためだった。 3日目より「帰るコール」 看護計画書にも記されている。 でも・・・なみちゃんのこの気持ちを受け入れてやることは出来なかった。 仕事の帰り毎日〜顔を見に行った。 そこで〜〜母が眠る準備をして「またね!」と帰ってきていた。 今夜のように風が強い夜。 疲れ果てていた。 あぁ〜〜また今日も「帰りたい」というんだろうな・・・と 思いながら、車の中で眠ってしまった。 気がついたら10時だった。 駐車場から見上げる3Fの病室の窓を見上げればすでに灯りはなく 真っ暗だった。 その夜は・・・母の顔を見ることなく帰ってきた。 心の中は後悔だらけ。 ひとつ・・・悔やむ事があるとすれば【この夜のこと】 母は、少しづつ体力の低下が顕著になってきた。 私は自分の意志を貫く決意をしていた。 ケアマネ受験も終わり、予定を繰り上げ母は帰宅した。 状態は良くなかったが、家に帰れば元気になる!と信じていた。 いつも・・・そうだったから。 「母さん、帰ろ!」と言ったら「うん!」と大きくうなずいた。 3日後・・・・・母は・・・・・ 「病院に連れて行って」と言った。 もう〜〜2度と家には戻ることはなかった。 1年たった今でも「あの窓」を見上げることが出来ないでいる。 ********************************************************************* 2年前のこの気持ちを、ずっと引きずっていた。 この病院をなくして母との時間を語れない。 母亡きあとも仕事で、日常茶飯事訪れているのに・・・ 窓を見上げることはなかった。 不思議な感情で、病棟の廊下は感慨を持って歩けていたのに・・・ たった一晩のこと。 その前後の感情はあるにせよだ。 ある日のこと。駐車場で知人の声がした。 振り向いたときに、私はまっすぐこの窓に視線がいった。 まったく自然に。 フツーに。 ぼかしたところが、車の中で眠った場所。 家に戻ってから、母の様々な表情を思い出して泣いた。 でも、私の中でひとつの時間を超えたと思っていた。 写真は、昨年の暮・・・ケアマネ試験発表後に写したもの。 窓に向って「また〜〜落っこちた」と心の中で叫んだ。 そのあと・・・私はにっこり笑ったのを覚えてる。 ******************************************************** 感情のコントロールは、困難なものですね。 …もしかしたら、母の思いを受け入れて、帰宅させていたら… この気持ちの葛藤は、ずっとずっと続いていた。 私は「ケアマネ受験に固執していたのも確か。 母の要求を受け入れなかったことは、それまで一度もなかったから。 受験がすんだら〜〜いつも通り、いつもの日常が戻ってくると思っていたし。 でも〜〜それは叶わなかった。 友人が、母と私の最期の会話を遺しておいてくれた(PCダウンで、何も保存出来なかった) 「○子、長い間・・・世話をかけてすまなかった」 唐突にいう言葉は不意に私の胸を突く。 「これからもでしょ。家に帰ってまた一緒に頑張ろ」 「母さんは、もういい」と言った。 私の感情も限界だった。 涙を抑えることが出来ず 「母さんがいたから何でも一生懸命頑張れたんだよ」 「○子・・・これも人生だよ」って。 「ありがとう。ありがとう。ありがとう〜〜」 「何回も言わなくていいよ」 そしたら・・・・・・・・・・・・ 「何回いっても足りないと言った」 この後、私は車に戻り大泣きをしたんだっけ。 ******************************************** 母の最期の言葉に現在があると思っている。 病院に行く度に思い出していたこの言葉。 窓も見上げることもできず〜〜私の中の罪悪として引きずっていた日々。 同時に、そこから抜け出す術を探していた日々。 時間が必要だった。 前述したように〜〜〜〜真っ直ぐ見た窓・・・見ることができた。 エピローグ そしてそして〜〜「悠々と」 この船に・・・出会った。 「もう〜〜いいよ♪自分の道を堂々と行きなさい」と。 きっと〜〜母がプロデュースしてくれたのでしょうか。 愛しき母・・・私のなみちゃん。 こんな感情を与えてくれて・・・「ありがとう♪」 相変わらず〜〜Mother's Music 「蕾♪」 |
草原にぽつんとピアノが置かれている。 お気に入りのアルバム。 何十年も母と一緒だったのに〜〜ツーショットの写真はほとんどない。 介護体験記が入賞して、身辺が俄かに賑やかになった。 この年、もうひとつ・・・全国公募の体験記も入賞してW受賞となったことから地元新聞やらの取材もあったりして〜〜 新聞に載った記事をスクラップしていたのがこのアルバム。 貴重な母とのツーショット。 母は右手(健)で、「やさしい手」を読んでる振り(笑) 状況ものみ込めないままに〜〜 私の若いこと♪ヘアースタイルは今にいたってまする。 介護生活の中で、二人が注目されたのは後にも先にも・・・ この年のみ! なんだか・・・講演依頼とかもあったりして^^; 母は座位を保ってる。 今の家に来る前のアパート生活だった頃・・・ね。 でも〜〜記念だわね(*^。^*) そうそう、入賞記念に頂いた「車椅子」は、特養にプレゼントさせて頂きましたよ。 母は、当時妹がプレゼントしてくれたのがありましたから。 当時、職員で現在は施設長のメッセ〜ジは心の宝となっています。 母が一生を終えた時・・・ご挨拶に伺いました。 とってもとっても母を讃えてくれたのです。 そして・・・私を見つめていてくれた気がします。 あっ!ボンズのことも。 いつも会うとね〜〜 「いくつになったんだい?」と聞いてくれました。 「そうか〜〜!」なんて。 何気のない表情が優しかったの。 これだけで・・・力になりましたね。 このアルバムには「思い出」がいっぱいなんです。 |
昭和六十二年八月十九日、私達夫婦に男児が授かりました。 骨盤位仮死産、蘇生、体重2640g、予定より二十八日早い誕生でした。 出産からどれくらいの時間が過ぎていたのでしょうか。 分娩台に体を休めながら産声を上げない我が子に心の中で泣け泣けと言い続け、出産に立ち会ってくれた人達の見守る中、か細い声を耳にした時、妊娠中の様々なアクシデントを乗り越え、母となり、そして私を生み育ててくれた母への想いを新たにした一瞬でもありました。 前年、胆石症のため胆嚢除去術を受けたばかりの母は出産に伴い、市の特老へショートスティ。 親身なる介護に、後に家に帰りたくないと言わせたほど温かいお世話だったようです。 妊娠中はつわりの度も激しく、不正出血、動悸、血圧上昇、安静を強いられた日々が続きました。あまりの辛さに、母にいく度激しい言葉を投げたことでしょうか。食事の用意も出来ず、母と私の食事も主人の作ってくれたものを頂くわけですが、母は後々まで、その時の気持ちは情けなかったと言っておりました。動けない自分は足手まといになるだけと、深く思っていたようです。 お下の世話だけは、私が果たしました。 妊娠後期には子宮口が開き入院。その間母はショートスティ。突然の依頼にも、市の福祉、また園の方でも快諾。私はその場での入院命令でしたが、手続きなどもあり車に揺られ無事送り届け、その足で入院。 母はこの日から四十五日間の園生活がスタートしました。 快適な生活を送っている母とは違い、出産の不安を募らせながら離れて暮らすことがどんなに淋しく、また張りのないものだと感じ、 実際私は親離れができていないんだと認識できたのが、何より私の糧になったようです。 子どもの成長する中、努めて冷静に介護、子育てを振り分け、生活にリズムを見出そうとすると非常なものでそれを狂わす出来事が起こります。子どもの入院。 その時も頼みの綱はショートスティ。以前とは別な園での受け入れ了承。咳、熱の続く我が子を近所に預けて、母を送ってきたのです。 一週間で退院となり迎えに行き、車椅子を二階に上げた時の重み。 これが母の存在の重みだと帰ってこれて良かったと、ここでもまた痛感致しました。 平成と移り、四月、母は尿管結石症で入院、手術、今までとは違い、子どもを抱えての付き添いは、母子共に限界があり、考えた末、子どもの保育所入所を決断。 おむつをしたままの登所が始まりました。 ある時、玄関のガラス戸にへばりついて私を待っていました。 言葉で言い尽くせない感情です。私は一体何を大切にしているのかわからなくなった時期でもありました。 子育てを、介護をしなければいけない。人の手を借りなければそれが成り立たない。我が子にこんな想いをさせてと。 五十日間の入院は精神と肉体の闘いでした。 息子も家族の一員となり、私を見て母を見て、喜怒哀楽を素直に表現のできる子にと願っています。 お父さんお母さんより早く口にした言葉が「ばんちゃん」でした。 母は、私の手が必要になってから十三年目も後半に入りました。 *********************************************** 今日も真っ白い雪が降っていました。 いくつもの冬を越えてきたんだなぁ〜と。 あの時の・・・それぞれの顔が・・・浮かびます。 不安げな母と幼い息子の小さな手。 来ていた服と履いていた靴。首から前にぶら下げていたカバン。 みんな・・・憶えてる。 自分で、出来ることは自分でして迎えを待っていた。 一才と八ヶ月の子・・・ 愛しい二人でした。本当に。 この入選から〜〜十年後に「介護保険施行」 さらに、私の介護は十七年と続くんだよなぁ・・・ |
●私の介護歴● 北海道出身。三十七歳。 母、六十七歳。脳梗塞による左半身麻痺。 二級一種障害者手帳交付。 介護のため職場をやめる。 介護のさ中、結婚、妊娠、出産、子育てを経験。 子どもは保育所へ。 介護歴十三年。 ●寸評 船山 和子氏● 大変なはざまの中で、うまく社会資源を活用し、また周囲の方々のやさしさに支えられ、一人で背負い込むことなく、重大な時期を見事、乗り越えられたことは、お若いのに立派な成果だったと感激しています。生まれた息子さんの初めての言葉も「ばんちゃん」だったとか、さぞ嬉しかったことでしょう。 まだまだ続くであろうこの介護、それに育児とマイペースでお続け下さいますように。 ********************************************** 私は、ここまでパソコンに入れるのに、何度何度も涙を拭いている。鼻水は出るしーー; 走馬灯のように:::シーン:::がね。 本文は後ほど。 |