鋼鉄異聞   運命の日

巻き上がる炎が全てを覆い尽くす。
外は漆黒の闇が広がっているはずなのに、ここは炎が照らし出す光によってまるで真昼のようだ。
そう思いながら、僕はその光景をぼんやりと見つめていた。
床を、天井を、柱を梁を、炎がまるで蛇のように這い伝い、僕が生まれ育ったこの屋敷を灰に返していく。
それはどこか他人事のように、僕の心は何も感じずにどこかに置き忘れたようだ。
だけど、あの光景が、唐突に僕の目に入ってきた。
優しく厳しい父が、猛々しくも狂気を纏った一人の戦士の凶刃に倒れる、その瞬間。
「うわああああああああああああッ!!!!」
僕はただ叫んで、叫びながら父の下へと駆け寄っていた。
床に倒れた父の身体は、びっしょりと血の色に染まり僕の衣服すらも侵食する。
「父上、父上ーーーッ!!」
父の身体に縋りながらも、誰が父を切ったか、という事よりも、じりじりと死に近づく父を助ける術もなく、ただ呆然とその死に様を見届けるしかない自分の不甲斐なさにこそ怒りを感じていた。
その父が、最後の力を振り絞り右手を僕の手に乗せた。
「…陸、遜。」
「ち、ちちうえーーーーッ!しっかりして下さい父上ッ!!」
「いいのだ。これが陸家に生まれし者の定め。これも玉璽が望むこと。私は其れを受け入れよう。」
幼い僕には、父の言っている事の意味が分からなかったが、それでも父が生きる事を諦めているということは分かった。
「嫌だ、諦めないで父上ッ!!死なないで、僕を、僕を一人にしないでッ!!」
今思えば、何て身勝手な事を言ったのだろうと思う。
だけどあの時、父が死んだ後の未知なる孤独に恐れを抱いても仕様が無いだろうと、あの方は仰ってくださった。
泣きじゃくる僕に、父は困ったように僕の頭を撫で続け、そしてその場にいたもう一人の人物に最後の力を振り絞って語りかけた。
「孫策様……」
実際は父を殺した張本人なのだが、僕はその時そうとは認識していなかったように思う。
その人に、孫策様に父は話し掛けた。
「私はいい。玉璽と共に生きる陸家の当主として後悔は無い。だが、この子はまだ幼い。私が居なくなればこの子は天涯孤独。どうか、どうか……」
「……お前を殺した俺に、息子の行く末を託すのか?」
「貴方さまの目的はあくまで玉璽。その玉璽を守る私は死に玉璽は貴方の物だ。だがこの子はそんなしがらみとは関係ない。それに今この状態で頼れるのは、貴方だけだ。」
「例えお前がそう言っても、果たしてその子供は割り切れるかな?父親を殺した男の配下に下ることに。」
その言葉を肯定するように、父は静かに頷き最後の力を振り絞るように僕の手を握り締めた。
「……陸遜。」
「父上……ちちうええ……。」
「いいかい、良くお聞き。これよりお前は孫策様の元へ下り彼に仕えなさい。」
そこでようやく、僕は孫策という名に覚えがある事に気がつき、ゆっくりとその方を振り仰いだ。
「孫、策さま?貴方はこの呉国の王であらせられる孫策さまなのですか?ならば何故父を、僕の父を殺そうとするのですか?父が、僕たちが貴方に何をしたのですか?」
怒るだけの力が、もう無かった。ただどこか無気力な悲しみが僕を支配してどうして?という疑問だけが頭の中を往復する。
「何故とな?よかろう、教えてやろう陸家の子供よ。お前達陸一族が守りし玉璽、それは森羅万象を操ることができるという力の源。それがあれば、この乱世を平定できるのだ。だからお前の父にその玉璽を渡すように言ったのだが……」
「それは出来ぬと、私が断ったんだ。」
孫策様の言葉を引き継いで、父が語り始めた。
「玉璽は正に力。世に出れば必ず騒乱と災いを齎す。そうならぬ為に、私達陸一族は代々静かに玉璽を守ってきたんだ。」
「私ならばその玉璽の力、この私が使いこなしてみせよう。……陸家の子供よ、どうする?玉璽を守る新しき当主として、この孫策と玉璽の行く末を見届ける気はあるか?否や?」
良く、分からなかった。
ただ自分達一族が何か特別な「力」を守っている一族だということは、幼いながらも分かっていたので、僕がその役目を今引き継いだこと、父が望むことは孫策様に仕え玉璽の行く末を見届けること。
それだけは分かった。だから……
「……父上、私が孫策様に仕えることを、お望みなのですね?」
そう尋ねても、父は返事を返してはくれなかった。
もう、息をしていなかったのだ。
僕はそっと、開いたままの父の瞼を閉じ両手を合わせて父を冥土に送る。
もう僕に選択の余地はなかった。
例え父を殺した張本人であろうとも、僕は陸家の当主として玉璽と、そして孫策様やこの呉の国の行く末を見届けねばならない。
僕は半ば悲しみに流されるようにその事を受け入れた。
「……決心はついたか?」
僕は袖で涙を拭い孫策様に静かに頭を垂れた。
「……よろしく、お願いします。」
「良い覚悟だ。では参ろうか。」
そう言って差し出された孫策様の手を取りきゅっと握り締めた。
例え父を殺した人であっても、突然の孤独の悲しみに襲われた場所で、縋れる人の温もりだった。
だから僕は思わず孫策様の手を強く握り締めていた。
そして孫策様も、強く、しかし子供の手を壊さぬようにしっかりと僕の手を握り返してくれた。
「安心しろ、玉璽を守りし一族の長よ。お前の息子の行く末は、私が保証しよう。」
こうして僕は、孫策様に仕えることになったのだ。

異聞冒頭