鋼鉄異聞   運命の日 第二話

「策ッ!とうとう玉璽を手に入れたのか!!」
城に戻った孫策を迎えたのは、彼の義兄弟であり気の置けぬ友人であり、そしてこの呉の大都督の地位にある周喩公謹だった。
「公謹か……」
「良くやった……それは何だ?」
それまで滅多に見ることが出来ない周喩の笑顔が、孫策の腕の中を見るや否や、いつもの眉間に皺を寄せた仏頂面になってしまった。
確かに孫策の右手には輝く玉璽があった。
だが左手の腕の中には、片手ですっぽりと収まってしまう少年が静かに眠っていた。
「これが陸家に伝わる玉璽だ。」
そう言って緑とも白とも輝く玉璽を、公謹に差し出した。
「そうではなく、もう一方のそれだ。」
「子供相手に、それとは……。」
周喩の言い回しに、半ば呆れるように言う孫策。
「ごまかすな。その子供は一体どうしたんだ?」
「察しのいいお前のことだ。すぐに分かるだろう。」
孫策の言葉に、軽く舌打ちをして静かに告げた。
「……陸家の、子供か。」
「その通りだ。名は陸遜伯言。陸家の嫡男だ。先ほどまで起きていたのだが、緊張の糸が切れたのだろう。眠ってしまった。」
そう言いなら孫策は、その体躯からは似合わぬような柔らかな仕草で陸遜の前髪を弄ぶ。
しかし予想通りの答えを言われてしまった周喩は、改めて孫策の口からその事実を告げられうな垂れる。
そんな周喩に、暢気な声で孫策はあっけらかんと言った。
「当主にな、死に際に頼まれてしまったのだ。この子を頼むと。」
「……後々面倒になるぞ。」
「仕方があるまい。それに孫権とも歳が近い。良い遊び相手になろう。」
孫権とは、幼いながらも聡明な人柄で既に臣下の信も厚い孫策の弟である。
その孫権の遊び相手と聞いて、周喩は大きく嘆息する。
「……ばかたれ。お前に子がおら現時点で、孫権様は第一王位継承者だぞ。その子供が、お前を恨んで孫権様に危害を加えるという可能性もあるのだ。遊び相手などもっての他だ。」
「穿ち過ぎだ公謹。」
「だったら軍師なぞ返上してやる。」
周喩の言葉に、どうやら本気で怒っているようだと思った孫策は「悪かった。」と素直に謝りながらも、陸遜を引き取る事には周喩の反対を受け入れなかった。
その頑固な態度に周喩は半ば諦めたように嘆息しながらも、それでも孫策に告げる。
「この子が成長して、お前を敵として狙うかも知れぬのだぞ。」
「その時はその時だ。だがお前が俺を心配してくれているのは分かっている。すまんな。」
「謝るぐらいなら引き取るな。」
周喩の言葉に苦笑を浮かべながら、孫策は自分の寝台に陸遜を寝かせる。
「……女官にでも、任せておけばいいだろう。」
「仮にも陸家の嫡男だ。それにその子供にとって俺は敵だ。変な奴には任せて置けぬ。ならば俺自身が面倒を見ればいいだけのこと。」
その端的な考えに、再び周喩の嘆息と眉間の皺が増えていく。
「……分かった。私が面倒を見よう。」
意外な申し出に孫策は目を見開く。
「意外だな。」
「仕方がなくだッ!貴様はいつでも無計画すぎる。しかも警戒心がまるで無い。仮にも玉璽を守ってきた一族の最後の生き残りだぞ。下手な教育では後々呉の災いともならん。だから私が後見人になってやる。」
そう言って、周喩はいささか乱暴に眠っている陸遜を抱き上げる。
「おいおい、乱暴に扱うなよ。まだまだ子供だ。」
その言葉を無視して周喩は城を後にした。


目が覚めるとそこは見知らぬ部屋であった。
最初、何故いつものあの天井ではないんだろう?
それに家には天蓋付きの寝台なんて、無かったのに……と陸遜が屋敷の天井を思い浮かべたその時だった。
陸遜の記憶の中の天井は、直ぐに炎に覆われてしまったのだ。
そこで陸遜は唐突に気付く。
あの懐かしい天井はもう無いのだと。
自分は、その天井を焼いた張本人、孫策様に引き取られたのだと。
だとすると、ここは孫策様のお屋敷なのか……?
そう思った途端、陸遜の両目からゆるゆると涙があふれ出てしまう。
いけない、父と約束したのだ。
僕は玉璽の行く末を見届けるのだと。
そう改めて決心すると、陸遜は寝台からゆっくりと起き出した。
するとすかさず家の使用人らしき老人の声が、陸遜に声をかけてきた。
「陸遜様、お目覚めですか?お目覚めなら朝のお支度を。」
「は、はい!どうぞお入りください。」
そうして部屋に入ってきた老人は、屋敷に使えるに相応しい矍鑠とした老人だった。
彼は陸遜に対して深深と礼を取った。
「私はこの屋敷の主人に仕えまする燕准と申します。以後お見知りおきを陸遜様。」
丁寧なその礼に、陸遜は慌てて寝台から降り同様に老人に対して礼を取った。
「ぼ、僕、いえ私は陸遜伯言と申します。よ、よろしくお願いします。」
その初々しい態度に、燕准と名乗った老人はその相好をまた一層崩したのだ。
「これはこれはご丁寧にありがとうございます。ですが私に対してそのような礼を取るのは不要にございます。」
「で、ですが僕は……」
陸遜は孫策に引き取られると覚悟した時から、半ば隷属のような境遇になるのだろうと思っていたのだが、よくよく見れば、今まで自分が寝ていた寝台も黒檀で出来た上等のものであり、真綿と絹をふんだんに使った贅をこらした物だった。
それは陸遜の想像をはるかに超えた待遇だった。
その戸惑いを察したのか、燕准は陸遜の今の状況を伝えた。
「このお屋敷の主が、貴方様の後見人となったのでございます。つまり貴方様はこのお屋敷のご子息同然にございます。ですから何もご心配は要りません。」
燕准が伝えた破格の待遇に、陸遜は目を皿のように大きく見開いた。
「ええ!?あの、あの、孫策様が僕の後見人!?」
孫策という言葉に少しばかり眉を歪めた燕准だったが、主から仔細を聞かされていたこの有能な老人はただにっこりと微笑んで説明を始めた。
「いいえ、ここは周喩公謹様がお屋敷にございまする。今後、貴方様の後見人を引き受けましたのはこの呉の大都督、周喩公謹様です。」
よくよく考えてみれば孫策本人が後見人になる筈もないとは思ったが、まさか呉の大都督という方が自分の後見人になってくれるとは思ってもみなかった。
そう思っていた陸遜の表情を察したのだろう、燕准が陸遜の顔を覗き込んだ。
「さ、納得頂けたなら朝の支度をいたしましょう。」
そう言うと燕准はパンと一つ手を叩き、外に控えていた女官達を促し洗顔用の桶と陸遜の着替えを静静と運び入れた。
その様子を暫く見ていた陸遜だったが、はっとして慌てて燕准に尋ねた。
「あ、あの、では周喩様にご挨拶に伺いたいのですが、何時頃ご挨拶に……。」
「主人はもうお屋敷にはおりません。お忙しい方ですのでもう城の方に参内なさりました。恐らく今日はもう帰参いたさないでしょう。さあ陸遜様、食事の用意が出来ております。お着替えをお手伝いしましょう。その後このお屋敷の中をご案内いたします。」

結局、その日は自分の後見人となった周喩公謹なる人物に会う事ができなかったのである。

 異聞TOP