鋼鉄異聞   運命の日 第三話

その夢はいつも、「紅」の色で始まる。

「父様ッ!!」
むなしく空を掻き毟るのは、いつも伸ばされた自分の腕だけあった。
その先には燃える父の姿はどこにも無く、ただ暗闇の中、見慣れぬ高い天井が映るのみ。

ここは一体何処だろう?

見慣れぬ天井と柔らかな寝台の感触。
ようようと覚醒し始めた頭が、陸遜にこれまでの事を思い出させる。
そうだ。
僕は、僕は孫策様に拾われ、今は周喩様の元で暮らしているのだ……。
あの日から幾日がたったのだろう?
いつまでも続くと思っていた日常が、突如業火と共に崩れていったあの日。
不思議と、時間が経つに連れて父を殺された悲しみがじっくりと胸に染みて広がっていく。
あの日以来、陸遜は熟睡することが出来ず、今のように浅い眠りと覚醒を一晩の内に何回も繰り返していた。
そして目が覚めれば墨が染みるように、悲しみが広がり陸孫は再びこみ上げてくる涙を堪えることが出来ずにいる。
今夜も枕に顔を押し付けて嗚咽を殺そうと、身体を動かした瞬間、下半身に感じる湿った感触に驚愕した。
まさか……!?
陸孫は蒼白になりながらも恐る恐ると掛布をめくる。
そして自分が仕出かした失態にどうしていいか分からず、暫く凍ったように動くことが出来なかった。


その夜、久しぶりに帰参した自分の主を、燕准は恭しく出迎えた。
「お帰りなさいませ周喩様。お勤めご苦労様にございます。」
「うむ。」
そう返事をする主の顔は、蝋燭のあやふやな明かりに照らされていても疲労の色がありありと浮かんでいた。
この所続く周辺の国々との小競り合いや、国内の不穏分子の活発な動き、それら諸々の緊迫した空気がこの国を覆っていた。
その分、燕准の主人に掛かる負担は日ごとに増えていく一方である。
負担……
そう思って燕准は、幼い彼の顔を唐突に思い出した。
「どうした?」
物思いに耽っていたのだろう、主人である周喩が訝しげに声をかけてきた。
「あ、申し訳ありません。」
「疲れているようなら休め。そなたもそうそう若くはなかろう。」
そんな素っ気無い気遣いが、燕准にはとても嬉しいが、若くないと云われてはいそうです、と素直に納得するほど燕准は老いてはいなかった。
「何を仰います。かつては周喩様のお父上と共に戦場を駆けていたこの燕准ですぞ。お気遣い無用にございます。」
燕准の言葉に周喩は苦笑しながら、脱いだ上着を燕准に渡した。
「風呂は沸いているか?」
「はい、湯あみの前にお食事になさいますか?」
「いや、先に風呂に入ろう。」
「畏まりました。」
恭しく礼を取り部屋を出て行く燕准に、周喩は思い出したように声をかける。
「そういえば、陸遜はどうしている?」
「おや、お忘れではないようですね。」
「嫌味か?」
「嫌味ではございませんが……陸遜様がこのお屋敷に来られてから幾日が過ぎたのに、未だに自分を引き取ってくださった方にご挨拶が出来ぬと、少々気落ちされていたので……。」
その燕准の言いように、周喩は苦笑を漏らした。
「それはどう聞いても嫌味のようにしか聞こえんのだが……。」
その言葉に、燕准はしばらく逡巡してゆっくりと周喩に語り始めた。
「いいえ、決してそのような事を言っているのではないのです。ただ……彼は陸家の子息だとお聞きしました。」
「そうだ。」
「孫策様はその陸家から玉璽を……強いて言えば簒奪したのでございますよ。」
「……強く言わなくとも、簒奪と言ってよいだろう。だが孫策はそれなりの覚悟を持ってやったことだ。」
「それは重々承知しております。ですが、彼にとっては……いわば仇です。今は子供であっても、将来何かしらの災厄になりかねないのではと……ならばいっそその場で切り捨てられてもおかしくは無かったのに、何故孫策様は……」
かつて戦場を駆け抜けた非情な戦士の顔が、燕准の顔に浮かんでいた。
今の世の中、子供であろうとも敵方の一族となれば殺されるのが常である。
一族もろとも滅ぼされる、等という事も珍しいことではない。
「そうだな、私もそう言ったのだが、奴は陸家当主から頼まれたのだと言って拾ってきたそうだ。まあ拾ってきたのものはしょうがないとして、そんな災厄の種を孫策の側において置けまい。」
「だからと言って、何も周喩様がその役目をお引き受けなさらずとも……。」
結局、燕准は主人が心配なのである。
今の現状でも主人の負担が大きいのに、これ以上負担を増やさなくてもいいのではないのか?とここにおらぬ孫策に愚痴を言っているのである。
そんな燕准の心情を察して、周喩は眉間の皺を緩め素直に嬉しいと思った。
「すまんな。だが彼……陸遜の立場はとても微妙なのだ。国内の情勢が不安定な今、陸遜を利用する輩が現れぬでもないだろう。だから手元に置いておいた方が安心なのだ。すまないが、暫くは頼む。ところで、お前の目から見て陸遜の様子はどうだ?災厄となり得るか?」
周喩の質問に、燕准は直ぐには答えず複雑な表情を浮かべた。
「……今現在では断言致しかねますが、とても、良きお子にございますよ。周喩様にお会いでき無いことをとても残念になさっておいでのようですが、それ以外は特に……。」
「そうか。ならば良い。」
そしてごく小さく、燕准は呟いた。
「……毎夜、泣いておいでではありますが……。」
「……そうか。」
燕准の言葉を聞き、最後に会った、孫策の腕の中で眠る陸遜の姿を思い浮かべた。
背を丸め、腕でしっかりと自分を守るように組まれ縮まるように眠る子供。
そこで初めて、父を殺されその仇に引き取られた、幼い子供の事を考えた。

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