鋼鉄異聞第三章 第四話

花に酔い酒に酔い人に酔い、そして周瑜に酔っていた小喬は、今まさに絶頂の域に酔っていた。
豪奢な衣装に星の輝き放つ装飾の数々。
趣向を凝らした料理に傅く使用人。
そして横には美周朗と呼ばれる程の美しき貴人。
かつて踊り子として国々を転々とし、時には芸を売り時には身体を売り、国を売った……。
いや、国などという概念など小喬にとってはどうでも良かった。
物心付いたときから自分は何者なのか、何人なのかすら知らなかったのだから。
がむしゃらに生きて汚泥に自ら進んで浸り手を汚し、自分を罵る声は少なくは無かった。
だが小喬は今こそ自分を罵った人々に胸を張って、今の自分を見せてやりたかった。
どうだ。
お前達が罵った自分が、今お前達では到底手に入れられぬモノを手に入れているではないか。
見るがいい。
この誇らしげな姿を。
私はこの顔と身体で、身一つでここまでのし上がったのだ。
今小喬は、天に輝く月、庭に咲く草花の一つ一つ、世を駆け巡る風すらも自分を祝福しているようにさえ思えてならなかった。
だがその絶頂の幸福を断つように、暗闇から男の声がした。
「……随分とご機嫌だな。」
小喬はその声に別段驚くでもなく、むしろこの幸福の時間を無粋な声によって遮られた怒りさえ覚えた。
「無粋な男だ。もう少し私の艶姿を見る余裕ぐらい持ったらどうだい?」
「生憎と私はそれほど暇ではないのでな。曹操様からの伝書だ。受け取れ。」
小喬の嫌味など柳に流し、男は暗闇からぬっと姿を現し懐から伝書を取り出し小喬に渡すと、再び夜陰に紛れた。
「ふん、せっかちな男だ……。」
そう呟くと小喬は受け取った伝書を開き目を通し、近くの篝火へ急ぎ放り込み燃やした。
「伝書には何と書いてあった?」
今度こそ小喬は驚いて一瞬身を竦めそうになった。が、辛うじて驚きを抑え優雅に振り返り声の主に微笑んだ。
「これはこれは周瑜様。もうお休みかと思っておりましたが、かような場所へ何用で?」
「お前こそ何用でここに?」
逆に問われ、小喬は動揺を何とか隠そうとそれらしい言い訳を口にする。
「昼間の花宴で火照った体を冷やそうと夜風に当たりに参りましたのよ。周瑜様はどうして?」
そう言うと小喬はしな垂れかかろうと身体を周瑜に寄せようとしたが、それを周瑜はやんわりと拒絶する。
たったそれだけの事だったが、小喬にとってそれはあまりにも大きい衝撃だった。
自分を拒むことなど、一度もなかったのだ。
それが今……
驚く小喬を尻目に、周瑜は冷たい視線で小喬を捕らえ、口元には冷笑を浮かべる。
「私が何故ここにいるのかと聞いたな?」
一呼吸、沈黙の後に周瑜は動かぬ小喬に向かいその言葉を吐いた。
「鼠を、数匹捕らえようと思ってな。」
その時、塀の外から狂気じみた男の悲鳴が上がり、小喬はびくりと身体を震わす。
「……男は殺したようだな。」
「いつから……」
思わず漏らした小喬の言葉に、周瑜は侮蔑じみた笑いを溢す。
「いつから?そんなの最初からに決まっているだろう。」
ではあの時から、孫策の宴で踊り子として近づいた自分を、この男は知っていたのか?
自分が、魏国の間者であることを。
「まあお陰で偽の情報を魏に送れたことは、お前に感謝せねばなるまい。」
途端に先ほどまで有頂天になっていた自分が、どうしようもなく愚かで惨めな者に思えてきてならなかった。
利用しようとして、逆に利用され、自分の虜となっていたと思っていたのがそうではなく……。
その事実は小喬の女としての矜持をズタズタに引き裂いた。
「……お前は愚かだな。先ほどの伝書、大方ほとぼりが冷めるまで姿を隠せとかそんな事が書いてあったのだろう?」
小喬の肩が僅かに揺れたことが、その事が図星だと知れた。
「馬鹿な女だ。あの曹操がそんなぬるい指令を出すと思うか?知り過ぎた間者がいつ自分を裏切り他国に寝返るか分からないと、この屋敷を出た途端に殺されるのが落ちだろうさ。曹操は、そういう男だ。」
つまり、自分はどちらにも利用されていたというのか?
周瑜にも、そして曹操にも……
その事実に、小喬の中の何かが弾けた。
「はは、あーはははははッ!つまり、私はとんだ道化だったという訳だね……。だけど周瑜様、あんたの言葉が真実だとして、さっきの男が私を殺したっていう報告を曹操に伝えなきゃあ、あんたが流した情報が偽物だって直ぐにばれるんじゃあないのかい?それじゃあ私を利用した甲斐が無くなってしまうねえ……。」
既に小喬は仮面を外し素を曝け出し、自分を保とうとする。
「偽情報自体に期待などしておらんさ。肝心な事は偽情報と真実を照らし合わせるだけの時間が、目的なのだ。」
「何だって?」
「奴は用心深い。だからそれまで得ていた情報と、お前が流してくれた情報の齟齬。奴は必ず時間をかけてそれを確かめる。その時間こそが我々の真の目的さ。」
「そんな、上手く騙される訳が……」
「そうだ。曹操は易々と騙される男ではない。これが成功するにしろしないにしろ、奴に疑念を抱かせればそれで上々なのだよ。」
その間にも、夜陰に紛らせていた兵士達がこの場へと駆けつけようとする軍靴の音が近づく。
「結局、私はいい様に踊らさらた、とんだ踊り子だったという訳だ。でもとりあえず、私を曹操の刺客からは守ってくれたのも事実よね。ならばいっその事あなた方に寝返って命乞いをしてもいいかしら?」
「ころころと寝返る歩はいらん。いつ寝首をかかれるか分からんでな。」
その言葉から、この男は最初から自分を女として見てはおらず、間者として最後この時までの過程をその頭の中に描いていたのだろう。
つまり、用が終われば私は……
「……どっちみち、命の保証は無かったのね。最初から。」
「もとよりそう言う道を選んだのだろう。今少し早く屋敷を出ていればいいものを。それと、途中で薬の量を減らしたな?何故だ?」
その言葉に小喬は唇を僅かに噛んだ。
日々繰り返された甘い睦言と、この男の逞しい腕に抱かれたあの喜びが、小喬の胸に去来する。
その幸福が、小喬の足を、そして薬を盛る手を鈍らせた事など、周瑜は露ほどにも思わない。
その事実に、女は毅然と頭を上げ言いのける。
私の心を、この男に知られてなるものか。
「はん。私の魅力だけで十分落とせると思ったからさ。あんたは私の身体に大層溺れていたからねえ。」
この男の足元になぞ、平伏してなるものか。
最後の、女としての意地が小喬を支えていた。
だがそんな小喬の胸の内を、周瑜は推し量ろうとしなかった。
「愚かな。私も甘く見られたものだ。お前ぐらいの器量の女なぞ、この国にはいくらでも居る。自惚れすぎたな。」
そう言って周瑜は静かに片手を上げて、控えていた兵士達を呼び寄せ小喬の周囲に展開させる。
自分に剣を突き立てる兵士達をぐるりと睥睨し、最後に小喬は自分を見据える男に指を突きたて罵倒の言葉を紡いでやる。
「自惚れているのはどっちだい?あんたは自分の事をなあんにも分かっちゃいないんだからさ。」
「何?」
突然の女の言葉に、周瑜は僅かに眉を歪ませた。
「……上手く自分を抑制しているように思っているようだけど、貴方は、貴方自身が思うよりも情熱的で、情動的よ。滑稽なのは、それに貴方自身が気づいてないこと。」
「馬鹿な。この期に及んで私を侮辱するのもいい加減にしろ。例えお前が言うように私が情動的であったとしても、公私混同はせぬ。私は女の為に国を裏切ることはない。」
女は小馬鹿にするように高らかに笑いながら更に続ける。
「……それは、貴方が本当の恋をしていないから。」
「何?」
「言ったでしょう?貴方は、貴方自身が思うよりもずっと、ずっと情動的なのよ。だから正直私はずっと貴方が恐ろしかった。むしろ今は、失敗して安心してさえいる。貴方の内に一たび住まえば、もう二度と自由を与えられぬでしょう。貴方は、愛しいと思うが故に相手の何もかも奪いかねない。いえ!奪うまで満足しないでしょうッ!」
「黙れ。」
周瑜は手を挙げ、兵士達に小喬を捕らえよと合図を送る。
女は抵抗しながらも叫ぶように、言葉を周瑜に叩き付けた。
「断言したっていいッ!あんたはいずれこの国を裏切る!あんたの内の!あんたの嫌った激しい感情の為にねッ!!!」
曳き摺られるようにしながらも、女は叫ぶことを止めず最後まで周瑜を罵った。
女が連れ去られた後、先ほどの喧騒は嘘のように辺りは静まりかえっていたが、周瑜の心は女の言葉によって激しく掻き毟られていた。
それを沈める為、周瑜はある場所へ向かって静かに歩き出した。


静かに扉を開ければ、そこには小さく丸まるようにして眠る陸遜が居る。
その姿を見た瞬間に胸を襲う情動を、溢れ出るように湧く感情を周瑜は何とか抑え込み、陸遜を起こさぬように寝台の横の椅子に静かに座る。
そして飽く事なくいつまでも陸遜の寝顔を眺めていた。

ただ眺めるだけで愛しさがあふれてくる。
愛しい、愛しい、愛しい……
それを知るのは煌々と照る月だけ。


それはあなたが本当の恋をしてにないから。


当たり前だ。
私には必要ない。
必要としてはいけない。
それを知ってしまえば、どうなるかなど、この私が一番良く知っている。

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