鋼鉄異聞第三章 第三話

小喬がこの屋敷に来てから幾日過ぎただ頃。
周瑜が政務で城に参内している間に、陸遜は小喬に廊下で呼び止められた。
出来るだけ屋敷内で顔を会わせないようにと、彼女の姿を見れば身を隠し、彼女もそんな陸遜を気にかけてはいないように、話しかけることも無かった。
だが今日初めて、彼女の方から声をかけられたのだ。
思わずその声にびくりと身体を震わせるも、陸遜は何とか張り付いたような笑みを浮かべ振り返った。
「あの……私に何かご用でしょうか?」
近づくにつれ、彼女の翻す領巾から、そして身体からあの独特の甘い匂いが陸遜の鼻孔を刺激する。
それは周瑜からも時折漂ってくるあの香りで、その甘すぎる香りに眩暈を起こしそうになる。
「ほほほ、陸遜様、そう堅くなさらずに。このお屋敷に逗留する身なれば、いずれ陸遜様とお話をしてみたいと思っておりましたのよ。いかがですか、これから私のお部屋でお茶でも……。」
その誘いを断る理由を、陸遜は持っていなかった。
「……分かりました。」
そして二人は小喬の部屋へと向かった。


陸遜を部屋へ誘った小喬は、馴れた手つきで甘い香りのお茶を淹れ陸遜に進め矢継ぎ早に質問を始めた。
「陸遜様はいつ頃からこのお屋敷に?」
「……一年ほど前からです。」
「そうですか。お名前から察するに、もしや呉の名門、陸家のご出身なのですか?」
「……傍流ですが、そうです。」
「では何故周瑜様のお屋敷に?」
「……」
押し黙ってしまった陸遜に、小喬はうっすらと微笑んだ。
「これは失礼を。お答にくき事をお聞きしたのならご無礼をお許しください。いけませんわね、どうも女は好奇心が旺盛で。」
「い、いえ……」
「ふふ、可愛らしい方……。ああ、お茶が冷めてしまいましたわね。淹れなおしてまいります。」
そう言って小喬は、すっかり冷めてしまった茶を下げ、奥の部屋に消えた。
暫くして現れた小喬は、先ほどとは違う何ともいえぬ甘い香りのする茶を陸遜の前に差し出した。
「こんな生業をしていると、方々を巡り旅する毎日。これはそんな旅先で求めた珍らかな茶なのですよ。ほんのりと甘くて、一口含めばまるで蓬莱に昇る如し、二口飲めば飛翔の如し、等と謳い文句がありますが、そこまで大袈裟な事はございません。ですが、陸遜様は何か心痛を抱えておられる御様子だったのでこの茶をお勧めしたのです。お悩み事など霞のように消えてしまいますよ。さあさ、一口だけでもお召し上がりくださりませ。」
そこまで進められては飲まないわけにはいなない。
それに、小喬の言葉が真ならば、自分のこの黒い感情も、胸が裂かれるような痛みも消えてくれるのだろうかと思い、陸遜はその茶を取り口に運ぼうとした。
と、そこへ乱暴な力で扉が開けられ、陸遜は驚き茶碗を落とし割ってしまう。
そして開け放れた扉の向こうに立っていたのは、陸遜がこれまで見たことも無いような恐ろしい形相の周瑜だった。
「あ、す、すいません小喬様ッ!」
「そこで何をしている陸遜。」
怒りの矛先が自分に向いている事に驚くも、考えれば小喬は周瑜の愛人なのだ。
曲がりなりにも男子たる自分が、おいそれとこの女人の部屋に入ってはいけなかったのだ。
「も、申し訳ありません周瑜様ッ!小喬様とはお茶を一緒にしただで……」
「当たり前だ。」
低く、冷たいその声に陸遜は打ちのめされる。
「何をしている。さっさと出て行くがよい。」
「は、はい……も、申し訳、ありませんでした……。」
そのまま下を向き、流れ落ちそうになる涙を堪えながら陸遜は退出した。
そして陸遜は自室に戻り、声を押し殺し泣いた。
ああ、自分は何と愚かなのだろう。
嫌われたくない。
しかし、周瑜に後戻り出来ぬほど自分は嫌われてしまったのだ。
これから先、周瑜に嫌われた自分はどうやって生きていけばいいのだろう?


一方、部屋に残った小喬と周瑜は、甘い香の香りに酔いしれていた。
「さあさ、周瑜様、もっと楽しみましょう。一口吸えば綿の如く身体が軽く、ふた口吸えば蓬莱飛翔の如し……ふふ、そうですわ。」
煙管の先から立ち上る怪しげな煙は、既に部屋全体に充満していた。
その霞がかった部屋で、二人はしどけなく寝台に横たわり、淫靡な事を繰り返す。
「周瑜様、あの陸遜と申す御子は陸家の傍流のご子息とか。可愛らしい方ですね。」
周瑜にしな垂れかかった小喬が、陸遜の事を口にすると周瑜は鋭く小喬を睨んだ。
その睨みが陸遜に対しての嫉妬と受け取った小喬は、周瑜を宥めるように甘えころころと笑った。
「ほほ、ご心配には及びません。いくら可愛くとも子どもは子ども。それに今の私には周瑜様しか眼中にございません。」
「その言葉、真信じてよいのやら……」
「まあ、私は周瑜様の前では真実しか申しません。」
「分かった分かった。まあいくら陸家の嫡男といえどあ奴には後ろ盾も無いからな。」
「と、申しますと?」
「孫策が滅ぼしたのだ。一族丸ごとな。まあ一族と申しても直系はもうあ奴しかおらん。」
「左様でしたか。ご自身は傍流だとおっしゃってましたから……」
「この私に気兼ねしておるのさ。養われている身だからな……哀れな奴よ……。」
「それで、どうして周瑜様はその哀れなご嫡男をお引き取りに?」
「あ奴の事は口にするな。」
そしてこの話はもう終わりだと、再び周瑜は小喬をその腕に抱いた。


屋敷の誰もが寝静まった時刻。
小喬の部屋で寝ていた周瑜は、こっそりと部屋を抜け出し一人井戸へと向かった。
井戸に付くと周瑜は、小喬の部屋で吸わされた薬のせいで朦朧とした意識を吹き飛ばすように、桶の水を頭から一気に被った。
幾分か意識がはっきりした時、そこが陸遜と初めて顔を会わせた井戸だと気が付き唇を噛んだ。
濡れた敷布を抱え、途方に暮れ小さな肩を震わせていた少年。
陸遜の震える身体を抱えた感触、香りがまざまざと周瑜の脳裏に浮かぶ。
そこで周瑜は思う。
どれだけ自分は陸遜に触れていないのだろう?
そう思っただけで、陸遜に触れたいと渇望する自分に戦慄いた。
欲しい。
欲しくて堪らなかった。
いっその事何もかも捨てて、このまま陸遜を掻っ攫ってどこか遠くへ行きたいとさえ思ってしまう。
「……ッ!馬鹿な事を……」
本当に馬鹿なことだ。
常に冷静に状況を把握し、感情を抑えねばならぬ立場であり、そしてそうである事が出来るという自信が周瑜にはあった。
なのに、たった一つの感情で自分はその立場を危うくしてしまう。
それは、あってはならぬ事なのだ。
そう自身に言い聞かせ、とにかくこの状況を何とか乗り越えねば、それは呉の存続にも影響してしまう。
「すまぬ、陸遜……。もう少しだ。もう少しでカタが付く。それまで辛抱してくれ。」
そう呟くも、目を瞑れば小喬の部屋を出て行くときの、陸遜の悲しい顔が周瑜の脳裏に焼きつき離れなかった。



それから幾日か立ったある日、周瑜は小喬と屋敷の女官や使用人全員を連れて花見に行くことになった。
提案したのは小喬だった。
彼女は周瑜の愛人としての確固たる立場にあると誇張するように、その日も豪奢に着飾り誇らしげに笑っていた。
「本当に、残念ですわ……。」
笑っていながらも、小喬はしおらしく領巾を口に当て、自分の乗る輿の横に、馬に乗り付き添う周瑜に声をかけた。
「せっかく皆で花を愛でようと思っておりましたのに……陸遜様だけが熱を出されて伏せってしまうとは……」
この日、陸遜がとうとう体調を崩し熱を出し床に伏せってしまったのだ。
「心配はいらぬ。燕准と下女一人を屋敷に残した。陸遜の世話はそれで十分だろう。」
「ふふふ、そうですわね。ではせめて陸遜様のお慰みになるように、花宴が終わったら花を一枝折ってお見舞いに参りましょう。」
「それが良かろう……。」
そうして一団がもう直ぐ目的地に到着するかしないかという時、周瑜は突然馬首を廻らせ屋敷に向かわせた。
「すまぬ。どうやら忘れ物をしたようだ。小喬は皆と一緒に先に宴を始めているが良い。私も後から必ず追いつく。」
「あ、周瑜様!」
そう言って周瑜は小喬の引き止める声も無視して急ぎ屋敷戻ったのだ。




屋敷に戻ると、いつもは使用人たちが細々しく働いている喧騒が嘘のように静まり返っていた。
それも当然だ。
今この屋敷に居るのは周瑜と、燕准に年老いた下女が一人、そして……陸遜。
「陸遜……」
そう言葉にすれば矢も立ても堪らず周瑜は小走りに陸遜の部屋に向かい、扉の前で中の様子を伺えば燕准も下女も不在らしく、周瑜はそっと扉を開け中に滑り込むように入った。
そこには、寝台でぐったりと熱にうなされる陸遜の姿があった。
その姿を見ただけで周瑜の心臓は破れそうに成る程激しく鼓動する。
側に寄れば、小喬や周瑜の態度に打ちのめされげっそりとやせ細ってしまった陸遜の顔に、周瑜は堪らず膝を折り陸遜の顔をそっと撫でる。
「……ん。」
その刺激で陸遜が起きてしまったのかと危惧するもそうでは無いらしく、周瑜が耳を近付けて聞き取ると「水」と繰り返しうわ言のように呟いていた。
「水か?少し待っていろ。」
周瑜がすぐさま寝台の周囲を見渡せば、そこには高価な蜂蜜が置かれていた。
おそらく燕准が、喉を痛めた陸遜の為に用意させたのだろう。
周瑜は急ぎその蜂蜜を椀に入れ湯を注ぎ蜂蜜湯を作ると、それをそっと陸遜の口元に寄せ飲ます。
意識が朦朧としている陸遜だったが、喉の渇きからこくこくと少しずつ垂下していく様に、周瑜は安堵の息を吐いた。
久しぶりに触れた陸遜の感触に、周瑜は中々離れられずいると、喉が潤い落ち着いた陸遜が俄かに目を開けた。
「……大丈夫か?」
堪らず周瑜が声をかけると、どこか遠くを見るように周瑜を見つめる陸遜だったが、周瑜を確認すると静かに涙を流した。
「……何故、泣く?」
まだ身体が辛いのだろう。ひどく緩慢な動きで周瑜の腕から逃れようとする陸遜。
陸遜が自分から離れたいというのであれば、その望みを叶えてやりたかった。
だがそれを決して許さない自分がおり、結局そのまま動けずにいると、とうとう陸遜が疲れ果てぐったりと息を吐く。
そして、呟いたのだ。
「……しないで。」
「何?」
「優しく、しないで……。」
「!!」
「今なら、今なら諦められるから……。だから、優しくしないで……。」
それだけ言うと、陸遜は再び静かな寝息を立て始めた。
駄目だ。
今陸遜が口にした言葉の意味を、深遠を探っては駄目だ。
その深遠を垣間見ては自分はどうなってしまうか想像が付かない。
そして周瑜はじっと拳を握る事でそれを耐え、意を決するとそのまま立ち上がり部屋を出た。
するとそこに燕准が控えていた。
「……燕准。」
面食らったように、周瑜は自分の忠臣に声をかけると、その言葉を受けて燕准は恭しく周瑜に礼を取る。
「どうやら、いよいよのようですな。」
その言葉だけで、燕准は全てを知っていたのだと周瑜は確信した。
「……知っておったのか?」
「何年私が貴方様にお仕え申し上げているとお思いか?私にも、知られてはならぬことだったのでしょう?私はあのように振舞わなければならなかったのでしょう?」
その忠義に周瑜は声が震えそうになるのを何とか堪え、燕准の求める答えを口にした。
「……ああ、そうだ。事を運ぶためには些細な事さえ漏れてはならなかった。すまなかった、燕准。」
「そうであれば私如きが口出す事ではありません。さあさ周瑜様。事を成しに行ってらっしゃいませ。それと、こちらで何か準備をしておくことはございましょうや?」
「ああ、孫策に使いを出してくれ。ただ一言『成就』と。」
「畏まりまして。」
「それと数十名程の兵を、夜陰に紛らせ屋敷を取り囲むように手配してくれ。」
「畏まりまして。」
そこで一瞬沈黙が生まれたが、周瑜は決意するように天を仰ぎ絞るようにそれを口にした。
「それと、陸遜を、頼む……」
主の決意を乱すまいと、燕准はただ従順な応えで示す。
「……畏まりまして。……一つお聞きして宜しいか?」
「何だ?」
「何故今日、花見なぞ……」
「せめてもの、花向けだ。あの女のな……。」
そして周瑜は、陸遜の部屋を一度振り返ると、屋敷を後にした。
事を、成就するために。

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