鋼鉄異聞第三章 第二話

庭一面に降り積もった桃の花弁も、邸宅の使用人達によって綺麗に掃き清められ、すっかり元の青い毛氈が彩った頃、ようやく周瑜は自邸に戻ることが出来た。
結局あの日から城からは戻らず今日までに至ったのだった。
久しぶりの主人を出迎えるため玄関で、小言の一つも言ってやろうと待ち構えていた燕准だったが、結局何一つ小言を言うことができなかった。
帰宅した主人の後ろに楚々として控えていた女人の為であった。
「周喩様……その方は……。」
燕准の蒼白な面を気にするでもなく、周瑜は何事もないように後ろに控えていた女人を紹介した。
「ああ、お前も驚くのも無理はない。どうだ、そっくりだろう。名はあったが、あえて小喬と呼ぶことにした。それでよかろう?小喬。」
そう問われた女人はうっすらと紅を彩った唇を緩ませ微笑みながら、恭しくうなずいた。
「はい、周瑜様に頂いた御名に何の不満がございましょう。喜んで両親より与えられた名を捨て、周瑜様に頂いた名こそ身体に沁み込んだ生涯の物としとうございます。」
「周瑜様、これは一体……」
「先の孫策の宴席で招かれた遊牧芸人の一団にな、この小喬がいた。私も最初は驚いたよ。だがこれもまた縁と思い屋敷に招くことにした。暫く逗留させるつもりだから世話を頼むぞ。」
「し、しかし周瑜様ッ!」
「私はこの屋敷の主だ。口答えは許さんぞ。」
強引に話を進める主に、燕准は堪らず声を荒立たせ抗議するも、有無を言わさぬ視線と空気で周瑜は燕准を押し黙らせた。
「お待ちください周瑜様。」
束の間の沈黙を見逃さず、その会話にまるでするりと入り込むように小喬と名付けられた女が入り込んできた。
「燕准様がお怒りなのは御尤も。卑しき遊牧の端女の我が身が、お屋敷の敷居を踏むことなど許しがたい事。何卒馬屋なり納屋なりにでもお部屋を頂ければ……。」
「私が構わぬと言っておるのだ。この屋敷を自分の家と思い自由に使うが良い。燕准、すぐに小喬の為に部屋を用意いたせ。」
「勿体のうお言葉にございます。」
周瑜の言葉に小喬は深く腰を折り礼を述べる。
そこへぱたぱたと軽い足音が聞こえてくる。
「燕准殿ッ!周瑜様がお帰りに……あ……」
「陸遜、客人の前だぞ、はしたない。」
「も、申し訳ありません……」
鋭い視線で睨まれた陸遜は、僅かに震え怯えたが、何とか居住まいを正し深々と腰を折り謝った。
そして客人と言われその人を見ると、何ともたよやかな美しい女人が周瑜の側に寄り添うように立っていた。
剥きたての桃のような白い顔、しなやかで絹のような真黒な髪が優美な曲線を描く腰にかかり、彼女が動く度にさらりとしなやかに腰から滑り落ちた。
洗練されたたち振る舞いが見事な女人であったが、どこか、淫靡な香りと気を抜けば誘うような真っ赤な唇が、どうしても陸遜は好きにはなれなかった。
「こら陸遜。客人に挨拶せぬか。」
周瑜に言われはっとし慌てて拱手し、躊躇いがちにも名乗る陸遜。
「まあ、何と可愛らしい貴人でしょう。私は小喬と名付けられた卑しき踊り子にございます。幸運にも周瑜様に目をかけて頂き、今日よりお屋敷に滞在する事が許されたのです。これからお見知り置きを……。」
「という事だ陸遜。しばしの間仲良うに。」
そう言って周瑜は小喬を伴って母屋へと行ってしまった。
暫く呆然と二人を見送っていた陸遜だったが、燕准に声をかけられてはっと振り返る。
「陸遜様、大丈夫ですか?お顔の色が悪うございますよ?」
「あ、い、いえ大丈夫です。ただいきなりの、事だったので、びっくりして……」
「確かに、まさか周瑜様があのような行動に出るとは……いくら小喬様にそっくりといえども……」
「え?小喬様とは、あの女人の方の事では?」
「あ……いえ……そうですね、お話しても良うございましょう。小喬様というのは……周瑜様がかつて愛した、女人にございます。」
その言葉に、暫し陸遜は返事をする事が出来ぬ程衝撃をを受けた。
だが考えてみればそれも当然の事。
周瑜ほどの男が、これまで愛した女性が居ないという方がおかしいというもの。
それこそ言いよる女人が千といるだろう。
何とか体裁を繕って陸遜は燕准に何事も無いように疑問を口にしてみた。
「あの、その女人の方は今……?」
「お亡くなりになりました。もう随分前の事のように思えますなあ。周喩様もお若かった。先ほどの踊り子は殊の外その小喬様にそっくりなので、あえて小喬と名乗らすと、周瑜様がおっしゃったのですよ。」
「そんなに、そっくりなのですか?」
「……顔立ちはそっくりですが、その他はまるで正反対ですよ。」
「その他?」
「……少なくとも、小喬様はあの踊り子のように誰彼構わず色目を使いませんでしたよ。」
憎々しげに女人を侮蔑する言葉を隠そうともせずに吐く燕准を、陸遜はただ茫然と見つめていた。



その日の夕食でも陸遜と小喬は同席したが、時折こちらに向けてくる絡みつくような視線に晒され、とんと食欲が湧かない陸遜は、夕食をほとんど残してしまい早々に席を辞したのであった。
席を立つとき、後ろから聞こえてくる二人の会話と時折混ざる嬌笑が陸遜の胸に突き刺さり、そのまま駈けるように自室へと戻った。
が、その夜。
周瑜の寝室から聞こえてくる、淫靡な声と甘い匂いが浅い眠りに付いていた陸遜を叩き起した。
「あ、ああ……、ああッ!!しゅ、周瑜様ッ!!」
人目を憚らぬその声。
まぎれもなくあの小喬と呼ばれる女人のものだった。
その意味を知らぬほど、陸遜は子供では無い。
かつて周瑜の逞しい腕の中で眠っていたのは、自分だ。
それを今日来たばかりの女人が、その腕の中で甘い声を上げ朝を迎えるのか?
そう考えただけで、陸遜は胸が苦しくなり涙が止まらず、漏れる嗚咽を必死に布を噛むことで抑え、結局一睡もできずに夜が明けてしまった。
まだ朝日が昇りきらない内にと、陸遜は急ぎ部屋を出て井戸へと向かう。
泣きはらし酷い顔を何とかしなくてはと、顔を洗うために向かったのだ。
そして、そのまだあどけなさが残る背中を見つめる視線に、結局一度も気づかぬまま陸遜は部屋へと戻ったのだった。



「おや小喬様、どちらへ?」
そう呼びとめる燕准を、小喬は優雅にヒレを翻し振り返った。
「はい燕准様、街の市へでも行こうかと存じます。先日周瑜様が柑がお好きだと窺ったものですから……。良い退屈しのぎにもなりますし。」
「左様ですか。では侍女をお1人お連れ下さい。小喬様の身に何かありましたら周瑜様に申し訳がたたぬので。」
「ありがとう存じます。ではお願い申し上げます。」
その返事を待つか待たないかの内に、燕准は手を叩き適当な侍女を選び小喬様に付けよと、女中頭に申しつけた。
そんな様子を、陸遜は柱の陰からそっ眺めていた。
小喬が屋敷に来て数日が経とうとしている。
相変わらず周瑜は寝所から小喬を離さず、毎夜その身体を抱いていた。
そしてその度に、夜ごと聞こえてくる小喬の喘ぎ声が聞こえてくる度に自分の心に湧き、腹の底に溜まっていく黒い感情が嫌で嫌で堪らなかった。
小喬が憎いと思う自分。
何故、周瑜様はあのような女を屋敷に置いておくのかという不満。
そして自分から請い願ったとはいえ二度と、周瑜の腕の中で眠ることが叶わないという悲しさ。
それらがない交ぜになって陸遜を黒く染め、憔悴させていく。
日に日に憔悴していく陸遜を心配し、訪ねてきた凌統が暫く自分の屋敷に滞在しろと勧めてくれたが、それは叶わなかった。
何故なら周瑜にそう願い出たところ、許しが出なかったのである。
「な、何故ですか?小喬様がおられるのなら、私のような、私のような者が居ては迷惑なのでしょう?」
やっとそれだけ言えた。
数日でもいい。
いや、一日でもいい。
周瑜から離れ自分の気持ちの整理をしたい。
そう願うも周瑜は断じて許さなかった。
「邪魔かどうかは私が決める。それにお前の後見人は私だ。私はお前という人間に責任がある。故に屋敷から出る事は断じてならん。分かったな。」
そう言うと、周瑜は陸遜の追いすがる声も振り払い部屋から出て行ってしまい、陸遜は凌統へ断わりの手紙を燕准に託したのが昨日の事であった。
昨日も、周瑜の部屋からは小喬の声が聞こえてきた。
日に日に、周瑜から漂う香りもあの女人の甘い香りに染まり、陸遜も自分の黒い感情に染まっていくのだ。
そういえば、何故自分はこんなにも憎くて、悲しいのかと、陸遜は寝不足ではっきりとしない頭で思い始めていた。




「いい加減になさいませッ!」
燕准は周瑜の部屋を訪れるなりそう怒鳴った。
「何の事だ?」
「今さらおとぼけになりますなッ!あの女人の事ですよッ!!」
「ああ、小喬か。小喬がどうかしたか?」
自分のの言葉に耳を貸す様子の無い主に、燕准は嘆息し冷やかに言い放った。
「私はあの女人を小喬様と及びする等怖気が走りまする。ですからあえてあの女人と呼ばせて頂きます。何故にあのような女人を屋敷に滞在させておいでか……」
「私が決めた事だ。お前の主は誰だ?私だろう。私の決めたことに文句を言うでない。」
「確かに私の主は周瑜様、貴方様ですよ。ですが、日毎に憔悴していく陸遜様の様子を知らないでもないでしょうに。」
陸遜と聞いて、潜んでいた感情が周瑜の頬に上り、睨むように燕准に向きなおった。
その様に臆することなく燕准は周瑜に対峙した。
「お怒りか?お怒りという事は図星と解して良うございますな?」
「うるさい。」
「周瑜様の寝室から毎夜聞こえてくる声に、陸遜様がどれだけ心を痛めておいでかお分かりでしょうに。」
「うるさいッ!」
次々と苦言を言い放つ燕准に、周瑜は思わずがたりと席を立つ。
暫しの間、にらみ合う主従は言葉も無く、燈火の油が燃える音だけが部屋を支配したが、根負けしたのは燕准の方だった。
「せめて陸遜様のお部屋を周瑜様の寝室から遠ざけるなどご配慮を……」
燕准の言葉に、それまでまるで耳を貸さなかった周瑜が何かに火が付いたように激昂した。
「ならんッ!あ奴は幼くとも陸家の子息だ。私の眼の届く範囲に置いておかねば危険なのだ。」
「そのような……」
主の反応に驚くも、それ以上に周瑜の口から出た言葉にこそ燕准は驚き呆然とし言葉を失くした。
「お前とて陸孫の事を快く思ってなかったはずだ。それとも情にほだされたか?とにかく私が決めたのだ。小喬の事も、陸遜の事も今後口答えは許さん。良いな?」
「……畏まりまして。」
そう言いながら、滅多に見ない主人の激昂に驚きながらもそのまま一礼をして部屋を出ていった。
そして、その背中を柱から覗いていた赤い唇が、うっすらとほほ笑んだ。




「首尾は上々。そう報告なさい。必ずや落としてみせると……」
夜陰に響く、密やかであるが人を見下すような女の声は、闇に隠れている黒装束の男に向けられていた。
「……分かった。」
男は何の感情も無い様な平坦な声でそれだけ言うと、そのまま音もなく右手を差し出し何かを要求した。
それを見た声の主は、ふんと鼻でせせら笑いながら懐から一通の書状を差し出した。
「ほら、お望みの物よ。しっかりと渡しなさい。」
「確かに。それと、分かっておろうが、くれぐれも尻尾を掴ませるなよ。」
その苦言に、女は瞬間的な苛立ちを覚え、持っていた扇で男の頬を打ちすえた。
乾いた音が闇に響いたが、男は何を言うでも無く反撃するでもなく、ただ事務的に書状を懐にしまい代わりに薄紅色の小さな巾着を取り出し女に差し出した。
女はそれを受取り懐に入れる。
「周瑜はすっかり私の虜。正体なぞばれようもない。それに、今や周瑜はこれ無しでは生きていけぬ身体。その内廃人に仕立て上げこの国を滅ぼしてやるさ。」
「ならば、良い。」
男はそう言って女い背中を向け、音も無く闇に紛れ去って行った。
そしてすっかり姿が見えなくなった所で女は、何を思ったか男が持ってきた巾着を、池に捨てた。

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