鋼鉄異聞第三章 春嵐の訪れ

咽るような桃の花香の中。
夜陰にその香を纏いながら忍び寄る足音。
ひたと確実に近づく妖の陰。

それは背後から、また正面からあらゆる角度から我を貪り食う為に近づいてくる。
この身に宿る鼓動と甘い苦悩を糧として生きるその妖。
ああ近づくな。
我に近づくな春の妖よ。
地に這う蔦のように絡め捕り、じわじわと侵食するその甘美な痛み。

酔うてはならぬ。
その甘さに陶酔に浸ってはならぬ。

さりとて名を呼べば……
刹那の速さで我が身を食らう。

妖の名は……



昨夜吹き荒れた春の嵐は、雪のような花びらを平らげ恐ろしいほどに庭の風景を一変させた。
庭に植えられた桃の花々が霞のように咲き誇った様も夢のように美しかったが、無慈悲な嵐が花を散らした後の庭は、より一層幻想的な常世の風景を作り出していた。
緑の芝生は桃色の花弁が覆い、まるで雪原のように家人達の眼を楽しませていた。
周瑜公瑾の邸宅に身を寄せている陸遜伯言もまた、その夢幻のような美しさに心躍らせている一人であった。
「綺麗……。」
ただ端的な言葉しか口に上らぬほど、その光景に心奪われていた陸遜は、暫し時間も忘れその光景に見入っていた。
「本当に美しいですなあ……。これで夜にでもなれば花弁が月光に映え益々幻想的な光景となるでしょう。どうでしょう、今夜内々だけの宴を催すというのは。周瑜様が奏でる笛の音はちょっとしたものですぞ。」
側近くに控えていた家人の燕准がそんな提案を陸遜に持ちかけた。
「ほ、本当ですか?。」
「はい、周瑜様には内緒にして驚かせましょう。結局桃花の宴も政務でやれずじまいでしたしね。今日あたりは早く政務も終わると今朝がたも仰ってらしたから大丈夫かと思いますよ。」
燕准は少し悪戯を仕掛けるような笑みを陸遜に向けた。
「周瑜様の笛、私は聞いたことがないんですが、噂では近隣に響くほどの腕前とお聞きしております。」
陸孫の言葉に、燕准は片眉を器用に上げた。
「おや、そういえばあまり邸宅ではお吹きにはなられませんな。」
「周瑜様は、お屋敷で笛をお吹きになることがお嫌なのでしょうか……」
燕准の言葉を聞いて、もしそうならば我儘を言って周瑜を困らせたくは無いという陸遜に、燕准はそれは違うと答えた。
「あの方が笛を吹くのは政務の間の気晴らしみたいなものですしね。特に理由は無いと思います。」
それに、周瑜が邸宅で笛を吹かないのは城で散々っぱら吹かされる為だと燕准は推測する。
その事は陸遜には告げず心中で呟いた。
「今夜お帰りになられたら、周瑜様にお願いしてみては如何ですか?」
燕准の提案に、陸遜は少し躊躇いがちに今一度燕准に尋ねる。
「……本当に、そんな我儘を私がお願いしていいのでしょうか?」
そんなささやかな我ままを大層な願いのように話す陸遜に、燕准は大仰に頷いて請け負った。
「おねだりしてご覧なさい。周瑜様も喜んで聞いて下さると思いますよ。」
「……はい。お願い、してみます。ありがとうございます、燕准殿。」
しかし、陸遜や燕准が用意した月下の宴は催される事はなかった。
城で急遽同じような宴が孫策の采配で行われる事となったからである。
そしてその宴にも、陸遜や周瑜を巻き込む春の嵐が吹き荒れたのだ。

その春嵐は一人の遊牧の踊り子。
かつて周瑜が愛した唯一人の女性、小喬に瓜二つの女だった。

 異聞TOP 次