(……一体、ここは何処だろう?)
城に参内した凌統は孫権に面会を求めたのだが、折悪く執務中との事で張昭に門前払いを食らってしまった。
年近い孫権だが、利発な彼は既に国の政ごとに関わっているらしい事は、父から聞かされていた。
だがそこで諦めるような性格であったならば、父である凌操も苦労はしなかっただろう。
以前教えてもらった抜け道を通って、孫権の居室へ忍び込もうと庭に出たまでは良かったのだが……
いかんせん広い城である。
案の定道に迷い茂みを掻き分けずんずんと進み、どうにか開けた場所に出たまでは良かったが、そこは凌統が目指す孫権の居室近くにある慎ましやかな庭では無く、ごく小さな東屋が供えられた広い庭だった。
どうやらそこは賓客の為に充てられる貴賓室に面した庭らしい事は分かった。
そして凌統は辺りをきょろきょろと見回し、誰もいない事を確認して茂みから這い出して貴賓室の方へと進む。
だが凌統の予想とは反して、貴賓室の庭に面した扉が開かれており、今現在その部屋には誰か居るらしい事が分かり慌てて身を隠し、そうっと部屋の中を覗いてみた。
(あれ、誰だろう……?)
城で同じ年頃の子どもと出会うことはまずないはずである。
だが貴賓室には、青い礼服を身に纏った美しい少年が、所在なさげに座っていたのである。
本当に、美しい少年だと思った。
何故か凌統の心臓がどきどきと鼓動を早くし、何かわくわくと落ち着かない気持ちが湧き上がる。
新しい何かを見つけた、それは好奇心を刺激されるような高揚感に似て、凌統を嬉しくさせ警戒心すらも押しやり凌統は少年の前に立っていたのだ。
「おい、お前誰だ?」
下を向いていた陸遜は、急にかけられた声に驚き跳ねるように顔を上げた。
「え?」
そして目の前にいるのは自分よりも幾分か幼い、少女だと陸遜は思った。
髪を一つに高く頭上に結いあげ、空色の可愛らしい礼服を着た少女は、少しきつめな印象を与える大きな瞳で陸遜を見つめていた。
「……君は、誰?」
恐る恐る、陸遜は少女に声をかけた。
確か周瑜様の話では、この部屋は人払いをしてあるはずであるが……
「お、ごめんな!俺は凌統公績ってんだ。呉軍禁軍将軍の一人、凌操公訣の息子だッ!」
そう名乗った目の前の子供が少年だと知り、陸遜は二度驚いた。
(女の子かと思った……)
「で、お前は?」
「ぼ、僕は……」
逆に問われ名乗ろうとした陸遜だったが、そこで周瑜の言葉を思い出しはっとする。

誰に問われようとも、名乗ってはならぬ。

陸遜は周瑜の厳命を思い出し俯いたまま黙ってしまった。
「なあ、お前名前は何ていうんだ?」
更に問う凌統に、陸遜は悲しそうに答えた。
「名前……」
「うん名前なんていうんだ?」
「言えない。」
「え?」
「名前は、言えないんだ……。」
その陸遜の答えに、凌統は自分が名乗ったのにという事と、膨らんだ期待を萎ませるような陸遜に苛立った。
「何でだ?名前あるんだろ?俺が名乗ったんだから、名乗ってくれたっていいじゃないかッ!」
知らず知らずの内に凌統の声は荒立ったものになってしまった。
言葉を発してから凌統はしまったと思ったが、もう言葉は戻ってはくれない。
一方陸遜も、何故怒鳴られなければならないのかという怒りが、ふつふつと湧いてくるのが分かった。
同じ年頃の子ども相手ということも手伝ったのだろう。
今まで大人相手に、怒りをぶつける事も出来ずにいた欝憤も知らず知らずの内に、陸遜の表に顔を現した。
何も事情を知りもしない子供に、何故自分が怒鳴られるのか。
一旦そういう感情に支配されてしまった陸遜は、言葉よりも先に身体が動いた。
ドン、という音と共に、凌統は床に転がされていた。
陸遜は感情のまま、凌統を強く突き倒したのだ。
あまりの事に、凌統も、当の本人である陸遜も暫く呆然としていたが、先に動いたのは凌統だった。
外面は可愛らしい少女のような顔立ちだが、気性は父譲りの激しい感情の持ち主だ。
「何すんだよッ!!」
そう言うと、凌統は素早く飛び起きて陸遜の二の腕辺りを掴み壁に押し付けた。
途端、びりッ、という嫌な音が二人の耳にやけに響いた。
そして恐る恐る二人は陸遜の礼服を見た。
幾年か箪笥の肥やしになっていた礼服だ。
糸が弱っていたのもあり、礼服は片口の辺りで見事に破けてしまっていたのである。
「あ、ああ……あああッ!」
悲鳴のような陸遜の声に、凌統は驚き慌てて手を離した。
腕を放された陸遜はそのまま床にぺたんと座りこんでしまい、両腕で自身を抱きこむようにカタカタと震えだした。
あまりのその憔悴ぶりに、凌統も慌ててしまい彼も床に座り陸遜の顔を覗き込んだ。
「お、おい…どうしたんだ?」
「礼服が……、礼服が……」
「あ、うん、俺が悪かったよ……」
その凌統の声は耳に入ってないようだ。
「しゅ、周瑜様に、お借りした礼服なのに……」
陸遜の言葉に、凌統は今朝がた父と話したばかりの話題を思い出した。
「お前か、周瑜様の隠し子って……。」
「これは一体、どう言う事になっておるのだ?」
聞きなれた声に、凌統と陸遜は驚き二人が振り向くと、そこには状況が飲み込めないまま立っている凌操と周瑜がいた。
「周瑜様ッ!」
「父上ッ!!」
周瑜の姿を見た陸遜は慌ててその場に膝を折り、額を床に擦りつけるようにしただひたすら謝まった。
「周瑜様!申し訳ありませんッ!た、大切な礼服を……」
陸遜の態度に驚いた周瑜だったが、見れば見事に破けた礼服。
成程と思い陸遜に顔を上げるよう言葉をかけようとした時、凌統は陸遜の前に立ちはだかり、周瑜から陸遜をかばうように両手を広げた。
「違うんだ周瑜様!俺が悪いんだッ!俺が強く服を引っ張ったから破けちゃったんだッ!こいつは悪くないッ!!何も悪くないんだッ!!」
その姿に、陸遜は半ば茫然としながら凌統を見上げた。
先に手を出したのは陸遜の方だ。
悪いのは自分なのに……
そして陸遜は意を決してがばりと立ち上がり、今度は凌統の前に立ち真っすぐに周瑜の眼を見た。
「違いますッ!悪いのは私です。私が先に手を出したのですッ!ですから悪いのは私であり、礼服を破いてしまったのも私のせいなのですッ!!」
「違うッ!俺が……」
「相分かった。」
尚も互いを庇い合うやり取りが続きそうだったのを、ぴしゃりと止めたのは凌操の一言だった。
「大体の話は分かった。ようは二人とも悪いのだな。ここは喧嘩両成敗ということでいかがですかな周瑜殿?」
突然話を振られはっとする周瑜だったが、凌総の意を解して静かに同意した。
「……そうですな。」
その言葉を聞いて陸遜と凌総はお互いに目を合わせると、ほっとしたようにくすりと笑った。
「ところで、この小さな貴人はどなたかご紹介頂けるのですかな周瑜殿?」
「ああ……そうですね。」
そう言って周瑜は陸遜に目配せをし、名乗るように促した。
この方には名乗っていいのだと知り、陸遜は拱手し名乗った。
「私は、陸遜伯言と申します。」
「陸……ッ?!」
その名前に凌操は息を呑む。
つい先だって孫策様が滅ぼしたという一族が、確か「陸家」ではなかったか?
まさかと思ったが、確かによくよく見れば陸家だけが持つという漆赤の瞳を、この少年は備えているではないか。
孫策様が伝説の玉璽を守るという陸家に興味を持たれていたのは知っていたが、滅ぼしたという話を聞いた時、何という激情の持ち主かと思い、誰も生き残ってはいないだろうと思っていたのだが、予想に反して子どもは生き残っていた。
しかもその子供を、周瑜殿が引き取っていたとは……
ちらりと周瑜を見れば、ただ含むような瞳で見据えてくる。
これは自分如きが云々と言える問題ではなさそうだと判断した凌操は、陸家については何も聞かずに自身も拱手して陸遜に名乗った。
「これはご丁寧に。私はそこな愚息の父親で、呉軍禁軍にて将軍職を預かっている凌操公訣と申す。以後お見知り置きを。」
暫く二人のやり取りを聞いていた凌統だったが、暫く思案して言葉を発した。
「陸家って、無くなったって聞いたぞ。」
凌統の言葉に、一同は息を呑む。
「こら凌統ッ!」
「って事は、お前一人ぼっちなのか?」
凌統を諌めようとした凌操だったが、続いた言葉に暫し成り行きを見守った。
じっと陸遜を見つめ陸遜の言葉を待つ凌統。
その瞳に悪意が無い事が分かった陸遜は、寂しげに笑みを浮かべた。
「……今は、今は周瑜様が居て下さるから、一人ぼっちではないよ。」
今にも消えそうな陸遜の笑顔に、凌統はちくりと痛む胸に何かを決意したのか、凌統は陸遜の両手を取ってぶんぶんと振り回した。
「りょ、凌統殿?」
「殿なんて付けるなよッ!俺も陸遜って呼ぶからさッ!それよりも周瑜様が居てくれるからって、一緒に遊ぶわけにはいかないだろッ!だったら俺が友達になってやるッ!だからもう一人じゃないぞッ!!これからは俺が守ってやるからな!!」
ぽかんとする面々だったが、一番最初に破顔したのは陸遜だった。
「友達……うん。うれしいよ凌統。でも僕は男だから守ってもらわなくても大丈夫だよ。」
周瑜の元に引き取られてから初めて出来た、同じ年頃の友人に陸遜は初めて子供らしい笑顔を見せたのだ。
「ははははッ!これで周瑜殿の隠し子騒動は一件落着だな、凌統。」
「「か、隠し子?!」」
その言葉に思わず同時に叫ぶ周瑜と陸遜に、凌操は笑いを堪えるように、今朝凌統と話した噂について二人に話した。
「実は陸遜殿を見かけた近所の子供がおり、周瑜殿の隠し子だと騒いでおってな。それを聞きつけたうちの息子が噂の真相を確かめようとしていたのですよ。」
「……そうですか。」
何とも複雑そうに渋い顔を作る周瑜は、何故かぷいっと横を向いてしまい、凌操はその態度の意味を捉える事は出来なかった。
が、尚も嬉しそうに陸遜に縋る息子の姿に気を逸らした凌操は、そんな二人の姿を見て思わず兄弟のようだなと口にした。
実際、二人並ぶと顔立ちが似ているせいか兄弟のようだと、周瑜も思った。
その言葉に凌統は嬉しそうにはしゃいだ。
「ほんとッ?本当に俺達、兄弟に見える父上ッ?」
「ああ、何とも中睦まじい兄弟のようだ。」
「えへへへ、俺一人っ子だから、嬉しい。」
凌統が嬉しそうに笑うと、つられて陸遜も少し照れながらも笑った。
「僕も、兄弟はいなかったから……」
「では凌統は陸遜殿を兄と呼ばねばな。」
凌操の言葉に凌統は驚いたように陸遜を見る。
身長は、まあ陸遜に譲るとして……幼い顔立ちがまだ垣間見える陸遜を、凌統は同じ年だと思っていたのだが……
「……陸遜は俺より年上なのか?いくつだ?」
「今年13になるよ。凌統は?」
「……11。」
その事実に、凌統は少しむくれながらも笑った。
「しゃーねえなあ、じゃあ大哥(アニキ)って呼んでやるよ!じゃあ早速遊ぼうぜッ!アニキッ!!」
「え?!」
突然の提案に、一瞬ぽかんとする陸遜だったが、凌操は優しく背を押し促した。
「うむそれが良かろう。私は暫く周瑜殿と話があるので、凌統と庭に出て遊んできてはいかがかな?」
「あ、あのでも……」
陸遜は困ったように周瑜を見、その視線を受け察したように周瑜は陸遜に近づいた。
「ああ、確かにこれでは遊びにくかろう。」
そう言うと、彼は何と破れかけた礼服の袖をいきなりびりりと破いてしまった。
ついでにもう片方の袖もびりりと破いた。
「しゅ、周瑜様ッ!?」
周瑜の行動に呆然とする陸遜に、周瑜は悪戯っぽく笑みを浮かべ陸遜の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「長い袖は遊びにくかろう。気にする事はない。それから、その服はもう礼服の意味を成さないから、思いっきり汚しても構わぬよ。さあ行きなさい。」
「あ、あの、孫策様との会見は……?」
「ああ、実はな、今回の事が孫権様にばれてな……。」
「え?孫権様とは、孫策様の弟君の?」
「そうだ。兄上は配慮に欠けると怒られてな、取りやめになった。だから遠慮せずに遊んでおいで。」
「は、はい……。」
そして子供二人は、大人二人に促されて庭に出る。



「しかし、驚きですな。」
二人が庭に出て最初に言葉を発したのは凌操だった。
「……陸遜の事ですかな?」
「いやいや、礼服の事ですよ。周瑜殿がいきなり破くとは思いませんでしたよ。」
予想外の言葉に周瑜はふと柔らかに、そしてどこか遠くを見るように語った。
「なあに、私も小さい頃は長い礼服の袖を破いては遊びまわりましたからね。その度に燕准に怒られた。」
「なるほど。」
周瑜の告白に、くつくつと笑う二人。
それからまた暫く沈黙が続いたが、徐に周瑜は凌操に話しかけた。
「陸遜の事、お聞きにならぬのですかな?」
「いや、聞いたところで私一人がどうのこうの出来る問題でもありますまいに。何より周瑜殿がお引き取りになった。それだけで彼の将来は安心でしょう。」
「随分と持ち上げられたモノですな。」
「世辞ではありませんよ。」
そこでふと何かを思いついた凌操は、周瑜に一つの提案をした。
「そうだ、今日は我が息子が無礼を働いた詫びに、陸遜殿の新しい礼服をしつらえさせましょう。」
「しかし、それでは……」
「いやいや、そうさせてくれ。そうでもせんと後日必ずうちの息子が落ち込むことになってしまう。」
存外に真面目な顔で我が子の為と聞いて、周瑜は思わず噴出してしまった。
「……分かりました。お言葉に甘えて。」
「それに何より、凌統に陸遜殿のような友人が出来たことは、あの子にとっても良いことですからな。その礼も兼ねてです。」
「それを言うなら、私の方こそ礼を云わねばなりませぬな。」
「?」
ちらりと庭で遊ぶ二人を、何とも言えぬ複雑な笑みで見る周瑜。
そこには屋敷では見せなかった、溌剌とした子供らしい笑顔の陸遜があった。
「あのような顔、屋敷では一切見せなかったのですよ。息子殿のお陰です。」
いつもどこか遠慮がちに笑う子供だった。
だが今は同じ年頃の、何のしがらみの無い友を得て、笑うことを笑っている子供らしい笑顔で陸遜は庭ではしゃいでいる。
「はははは、ではお互い様ということですかな?」
「はい。」
「では後日、息子と共にお屋敷の方へ伺うとしよう。」
「お待ち申し上げております。」
陸遜は凌統と一緒に転げ回るように遊んでいる。
そしてその子供らしい陸遜の笑顔を見ると、何故か周瑜の胸はちくりと痛むのだった。

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