鋼鉄異聞 運命の日 第五話

こつこつと、周喩の靴音が回廊に響く間、陸遜は改めて自分を抱える人物を窺がう。
子供とはいえ12歳の自分を軽々と持ち上げ、さも無いように歩く彼。
密着させた身体の部分部分から伝わる強靭な力強さに、彼は武人なのだと推測できるが、身に付けた着物の設えの良さに、到底無骨な武人のそれとは重ならない。
何よりもその端正な容姿。
男性でも、ましてや女性であっても、この方以上に美しいと思える人間に陸遜は会った事がなかった。


周喩の容姿に見とれていた為か、どこをどう連れられて来たか分からなくなってしまったが、どうやら母屋の一室に陸遜は連れてこられたようだ。
部屋の中をぐるりと見渡せば、設えの良い調度と天蓋付の寝台。
恐らく彼はそれ相応に身分の高い方なのだろうと、陸遜は推察し、そんな身分の方の手を煩わせてしまった自分が情けなくなる。
そう陸遜が項垂れている間に周喩は部屋に入り、陸遜を長椅子に座らせると、部屋の火鉢に火を起こし湯を沸かし始めた。
そして洗顔用の陶器の盥に水差しの水を注ぎ、沸騰したお湯を入れ人肌に丁度よい温度に調節する。
「時間が時間だ。風呂の湯はもう落としてしまっているから、これで我慢するのだぞ。」
そう言って陸遜の濡れた服を脱がし始めた。
それまでされるがままだった陸遜だったが、これにはさすがに慌てて周喩の手から逃れた。
「!!じ、自分で出来ますッ!!」
「そうか、では着替えを用意しよう。これで体を拭いなさい。」
そう言って周喩は盥のお湯に浸した布を固く絞り、陸遜に渡し周喩は部屋を出て行った。
渡された布からじんわりと伝わる温もりに、陸遜はやっと体の緊張が解けるような感じかした。
(体を拭いなさいって事は…やはり知っておいでのようだ…。)
抱えながらこの部屋に連れてこられたのだ、自分の仕出かした失態をあの方は知っておいでのようだが、その場で責めるでもなく、嫌な顔一つせずこの部屋まで連れて来てくれた。
そして陸遜は周喩の出て行った戸口に、深々と頭を下げると体を拭うため寝間着を脱ぎ始めた。


一方、周喩は陸遜が先ほどまでいた井戸に来ていた。
とりあえず陸遜をこの場から連れ出すことが先だった為、盥に浸された敷布はそのままになっていたのだ。
「……これは、片付けたほうがいいな。」
そう呟きながら、周喩は袖を捲り上げて敷布を不器用な手つきで洗い始める。
「ふう…まさかこの私が、洗濯女の真似事をする羽目になろうとは……。」
今自分の姿を燕准が見ればどう思うのか?
その場に白目を向いて倒れるだろうか?
それとも顔を真っ赤にして怒るだろうか?
そう思うと、自然と笑いが込み上げ、そして自分が笑ったことに驚いた。

久しぶりに、笑った気がした……

今まで緊張した政務が続いていたせいだろう。
久しぶりに笑ったら頬の筋肉がほぐれる感じがした。
そう思いながら周喩は洗い終わった敷布を硬く絞り、そのまま陸遜の部屋に寄り寝間着と洗った敷布を抱えて自室に戻った。

自室に戻ると、体を拭い終わった陸遜が濡れた寝間着をどうしようかと思案しているところだった。
抱えて分かっていた事だったが、彼のあまりに細く白い体に周喩は目を細めた。
「これに早く着替えなさい。その寝間着は朝女官にでも渡せばいいだろう。」
そう言いながら周喩は陸遜から寝間着を受け取り、近くの籠に適当に放り込んむ。
そして抱えていた敷布を、衝立に大雑把にかけた。
「明日また外に干せば乾くだろう。」
「ごめんなさい……」
か細い声に振り返れば、新しい寝間着に着替えた陸遜が、申し訳なさそうに下を向き項垂れていた。

その溜息が出るぐらいに小さな姿。

その姿に周喩は僅かに視線を逸らし、陸遜に座るように言うと自分も向かい側の椅子に深く座った。
「……ごめんなさい。」
「良い。それで、どうしたのだ?あのような場所で。」
周喩の言葉に陸遜はびくりと肩を震わす。
その姿に周喩は再び大きく息を吐く。
「……言えぬか?」
「い、いいえ!その、ごめんなさい。僕は、僕は……」
「いや、お前がしてしまった失態は想像がつく。私が聞きたいのは、どうしてそんな事になり、何故こんな夜更けにあんな場所にいたかだ。」
やはりこの方には知られてしまったようだ。
ならばと、覚悟を決め陸遜はぽつぽつと話し始めた。
「……はい。その、夜、怖い夢を見て……。」
「夢?」
「はい……父が、殺される、夢を。」
考えれば目の前で殺されているのだ。
夢に見ないほうがおかしい。
「……そうか。つい先日のことだからな。」
「はい。怖くて、ただ怖くて悲しくて。そう思って目が覚めると、何故か、その…おねしょを……」
最後、消え入るように陸遜は理由を話した。
その話から推し量れば、典型的な心的障害による夜尿症の再発だろうと推測された。
「理由は分かった。だが何故あのような場所で……」
「ぼ、僕は、このお屋敷の主、周喩公謹様に引き取られました。両親が死んだ今、僕は周喩様に養われています。」
「それは……」
そこまで言いかけてふと気がつく。
この子供と対面するのは、これが初めてなのだ。
自分の顔を知らないのは当然だ。
「そんな僕が、お屋敷に着いた早々、この歳で、お、おねしょをしてしまった…。すごく申し訳なくって。」
「それで一人で処理しようとしたのか?」
「はい。」
「ふう……愚かだな。」
その言葉に陸遜はますます顔を伏せてしまう。
そう、愚かな事だが、子供とはそういうものなのだ。
暫く沈黙が続いた後、陸遜は意を決したように顔を勢い良く上げ必死の形相で訴えた。
「お、お願いです。この事はどうか周喩様にはご内密にッ!!こんな失態を知られてしまっては…僕は……」
「……歳は、いくつだ?」
関係の無い質問に、陸遜は意表を突かれ目を瞬かせたが、素直に質問に答えた。
「は、はい、今年12になります。」
12といえばそれなりの歳だが、まだ子供の領域を抜け出せぬ微妙な年頃でもある。
「……恐らく、お前のその失態はその夢に原因があるようだ。その夢がお前の心身に影響してそのような事になったのだろう。別段恥ずかしい事ではない。誰にでも起こり得る事だ。」
周喩の言葉に、陸遜は少しだけ安心したように顔を上げた。
「そ、そうなのですか?でも……。」
原因は分かっても、また同じ事を繰り返すのではないかと、危惧しているようだ。
たしかにこのまま陸遜を帰しても、夜尿症は改善しないだろう。
そう思案しながら、ある結論に達して周喩は大きく息を吐きながら、陸遜に手を差し伸べた。
「?あの……」
その差し出された手の理由が分からず、陸遜は周喩の顔を窺う。
「敷布があのとおりだし、寝台もまだ濡れていよう。今晩はここで眠りなさい。」
「で、でも!そこまで貴方にご迷惑をおかけする訳には……」
「もう十分迷惑だ。今更遠慮するな。それに、怖い夢というものは人肌があれば存外見ぬものだ。それとも、私では不服か?」
その言葉に、陸遜は慌てて首を振る。
「ならば問題は無いな。」
周喩の言葉を受けて、陸遜は差し出された手にゆっくりと自分の手を重ねた。
自分よりも遥かに大きく、そして武人特有のしっかりとした骨ばった手。
その手が自分の未熟な手を包み込んだ。
「あ、ありがとう、ございます……。」
感謝の言葉と共に、陸遜は小さく笑った。
そのどこか遠慮するような笑い方に、周喩の胸がちくりと痛んだ。
「……眠りなさい。」
その痛みに目を背けるように、周喩はぶっきらぼうに応え慣れぬ手で子供を抱きかかえて目を瞑った。
だが目を閉じていても、腕から伝わる彼の体の何と細いことか。
そう思ったら、知らず知らずの内に周喩は彼を抱く腕に力が篭ってしまい、慌てて力を緩め恐る恐る目を開き陸遜の顔を覗き込んだ。
見れば既にすうすうと寝息を立て、己の腕の中で眠っていた。

薄情な己の腕で、安心して眠ってくれるものだ。

そう思いながら、周喩は小さく呟いた。
「すまなかったな……。」
一方陸遜は、久しぶりの人肌と、偶然出会った彼の大きな胸に抱かれて父の夢を見ることは無く、この屋敷に来てから初めて深く眠りについたのだった。


翌日、広い寝台には陸遜一人きりで、昨夜の親切な男はいなかった。
もしかして昨夜の出来事は夢だったのか?
一瞬そう思った陸遜だったが、見慣れぬ部屋に夢でないことが分かり安堵する。
そこでふと、自分は彼の名前を知らぬ事に気が付き気落ちした。
(自分は何と愚かなのだろう。あれほど親切にして頂きながら御名をお聞きしなかったとは……)
しかも自分は名乗りもしなかった。
(ああ、でもあの方は僕の名前を知っておいでだった……)
確かに自分を陸遜と呼んでいた。
だがこの屋敷に引き取られ数日が経っているのだ。
拾われた自分の名前など、もうこの屋敷の人達には知れ渡っているのかもしれない。
さしたる疑問にも思わず、陸遜は自室に戻る為ようよう寝台から身を起こした。
しかし、何時も通りにあの燕准という老人が、朝支度の準備をして部屋に入ってきたには流石に驚いた。
「え?!あ、あの燕准殿??」
驚く陸遜に、燕准はにっこりと微笑んだ。
「伺っておりますよ。さあ、朝の支度を。」
そう言いながら女官を部屋に入れようとする燕准を見て、陸遜は慌てて部屋の中を見渡した。
(そうだ、昨日の敷布をッ!)
だが昨夜衝立に掛けられた敷布は、どこを見渡しても見つからず、恐らく昨夜の御仁が片付けてくれたのだろうと推測した。
「どうかなさいましたか?」
「い、いいえ、何でもありません……。」
(……ありがとうございます。)
陸遜は心中で、昨夜の名も知らぬ貴人に深々と礼を述べていると、何やら何時もと違う様子に陸遜は訝しんだ。
何時も自分を世話してくれる女官は一人なのに、何故か今日は三人になっていた。
「あ、あの……」
陸遜の戸惑いを察して、燕准は承知とばかりに理由を告げた。
「今日は周喩様がご一緒に朝食をとのことです。ですので少しばかり念入りにお支度して頂きます。宜しいですか?」
「は、はいッ!!」
突然の事に驚き緊張する陸遜だが、やっとのことで自分を引き取ってくださった方にお会いできるという嬉しさと、そして初めて対面するという緊張感を伴いながら、一体どんな方なのだろうと想像する。
そして支度が済んだ陸遜は、促されるまま食堂を目指すが、陸遜は緊張感からか堪らず燕准の背に質問をする。
「あ、あの燕准殿、一つお聞きして宜しいでしょうか?」
「はい、何でしょう?」
「周喩公謹様とは、一体どのような方なのでしょうか?」
「はい?」
陸遜の言葉に燕准は思わず立ち止まり、何処か間の抜けたような声を出してしまった。
突然立ち止まってしまった燕准に、陸遜は何か失礼な事をお聞きしたのかと慌てて一生懸命説明した。
「あ、あのもちろん僕の後見人となって下さったのですら、お優しい方とは思います。それと呉の大都督という地位にお就きなのですからご立派な方とも思いますが……。」
「ああ、いやいや、そういう訳ではないのです。……そうですか。」
(名乗っておられなんだか……)
てっきり名乗っているものと思っていた燕准は、大業に嘆息しそのまま天井を仰ぎ見てしまった。
(昔からそういう方だった……あまり日常の事に頓着しなというか、抜けているというか……)
「あ、あの……僕、失礼な事を申しましたか?」
黙ってしまった燕准に、自分が何か失態したのではないのかと恐る恐る訊ねる陸遜に、燕准は緩く首を振る。
「いいえ、そうですね。周喩様がどういう方かと申されますと……。」
そこで再び燕准は食堂に向かい歩き出したので、陸遜も慌てて後を追う。
「……よくよく間が抜けておられ方ですね、あの方は。」
「…………はい?」
おおよそ主に向かって吐く言葉ではないように思うのだが、それ以上の事を聞こうにも二人は食堂に着いてしまった。


「周喩様、陸遜様をお連れしました。」
燕准がそういうと、部屋の中から短い応えががあり二人は扉を開け中に入った。
「初めてお目もじ仕ります。陸遜伯言と申します。此度、私如きの後見人をお引き受けくださり、誠感謝の言葉もございません。」
陸遜は部屋に入るなり深々と礼を取り、相手の許しを得るまでその顔を上げずに口上を述べた。
その口上を受け、部屋の主は許しの言葉を口にした。
「顔を上げなさい、陸遜。」
その声を聞いたとたん、陸遜はびくりと肩を震わせてしまった。

まさか……ッ?!

だがその声を間違えようも無い。
昨夜、その低い美声に救われた。
だから陸遜は我が耳を疑い暫く顔を上げることが出来なかった。
「陸遜。」
再び主の声が自分を呼び、漸く陸遜はゆるゆるとその顔を上げた。
「挨拶が遅れてすまなかった。私がお前の後見人となった周喩公謹だ。」
顔を上げた陸遜の前に座っていたのは、昨夜自分を助けてくれたまさにその人だったのだ。
ならば昨夜の失態は、とっくにこの屋敷の主に知られていたのだ。
愕然として動かない陸遜を慮り、燕准はそっと彼の背を押し席に着くように促した。
「さあ、陸遜様。お席にお着きください。食事になさいましょう。」
「は、はい。」
席についても、陸遜は昨夜の失態や数々の非礼、助けてくれた感謝の言葉、どれから、そしてどう切り出したらよいか混乱していると、周喩の方から話しかけてきた。
「昨夜は、ぐっすり眠れたか?」
「は、はい!そ、その……お、おかげさまで……な、何事も、無く……。」
二人の会話を察し、給仕をしていた燕准は他の者達と共に部屋を出て行った。
それを見計らって周喩は再び話し始めた。
「そうか、眠れたならば重畳。」
「あ、あのッ!」
「何だ?」
「昨夜は、本当に申し訳ございませんでした。周喩様とは知らずに……色々ご無礼を……。」
「それはもう良い。執務が続いたとはいえ、挨拶が遅くなってしまったからな。」
「い、いえッ!せめて僕が御名をお聞きしていれば……。」
そこで再び会話が途切れてしまった。
立ち上る粥の湯気がゆっくりと立ち上る。
その様を暫く眺めていた周喩だったが、一旦大きく息を吐くと再び陸遜に話しかけた。
「陸遜、暫く、お前が安心して眠れるまで、あの部屋で眠るか?」
「え?」
最初、何を言われているのか分からず、その意味を理解するまで少し時間がかかった。
だがその意味を理解したとき、果たして返事をしていいものかどうか迷ってしまう。
自分の立場、そしてこのお方の立場、それらを考えた時、これ以上甘えてもいいのだろうかという自分への戒め。
それらがぐるぐると陸遜の思考を錯綜する。
だが再び、周喩は申し出た。
「お前が夢を見なくなるまで、あの部屋で眠るか?」
あの部屋。つまり周喩の部屋。そこで昨夜のように一緒に眠っていいと、この方は仰って下さったのだ。
そう思うと、陸遜はふいに涙が出そうになり、それを抑えようと袖口で目頭をごしごしと擦る。
それを見た周喩は少しばかり慌てたような声を上げる。
「ど、どうした急に……」
「すいません。う、嬉しくて。また泣いてしまいそうで……。」
「……泣くほどの事ではない。」
そっぽを向いてどこか照れたように言う周喩に、陸遜は嬉しそうに笑いながら深々と頭を下げた。
「その、周喩様さえ宜しければ、お願いします。」
「……うむ。問題が解決したのならば、食事にしよう。冷めてしまう。」
「はい。」
食事の間中、相変わらず会話は無かったが、先ほどの沈黙よりも雰囲気は柔らかくまた、この屋敷に来てから食べた食事の中で、一番美味しいと感じられた。
考えてみればこの屋敷での食事はいつも一人きりだったので、久しぶりに人と面と向かい会う食事だった。
だからなのか、少しだけ日常へ戻る手がかりを見つけたように陸遜は思えた。


こうして陸遜は、暫く周喩と一緒に眠ることになった。



時が立っても相変わらず夢を見る。
時が立つにつれて孫策様の理不尽な仕打ちが恨めしく思う。
だけど、と陸遜は思うのだ。
周喩という人を知ってしまった今、もし周喩様に出会えることが出来なかったのなら……

そんな複雑で、苦しくて、悲しくて、そして時に甘くて……
複雑な思いを抱えながら、陸遜は周喩の元で成長を遂げていくことになる。

 異聞冒頭