鋼鉄異聞 運命の日 第四話

その夜、湯を浴び軽い食事を終えた周喩は、燕准の言葉が気に掛かり、陸遜が眠る部屋へと向かっていた。
一度思い出してしまえば、あの運命の日、孫策によって連れてこられた小さな子供の顔がちらちらと周喩の頭をよぎり落ち着かなかったからだ。
ならばもう一度顔を見れば落ち着くのではという考えと、あの日以来顔を会わせていないことへの、多少の罪悪感があったからだ。
例え望まなくとも、後見人と自分が名乗りを上げた責任があるのだ。
その責務は果たさねばなるまい。
などとつらつらと考えている内に、周喩は陸遜の部屋の前まで来ていた。
燕准の話によればもう眠っているとの事。
ならば声を掛けるのは些か忍びなく、そっと周喩は部屋の中へと足を踏み入れた。
客人用にと作られた貴賓室は、こじんまりとしてはいるものの贅を凝らした家具が趣良く配されていた。
だが、年頃の男子が気に入る部屋では、決してなかった。
もう少し、明るい調度がある部屋にすれば良かったか……
などと考えながら、周喩は天蓋に吊るされた薄絹をそっと掻き分けた。しかし……
「!?」
そこには、眠っているはずの陸遜の姿はどこにも無かった。
「……逃げたか?」
そう呟きながら周喩は急ぎ部屋を出て周囲を窺がう。
しかしそこには深い闇と、小さな虫の音が響くのみ。
「ちッ」
周喩は舌打ちをしながら早足で母屋の周囲に建てられた回廊を駆けてゆく。

だから言ったのだ。
災いになりかねないと!

夜半も過ぎた時間だ。
なるべく音を立てずに静かに歩きたいのだが、苛立ちがそのまま出ているように自然と荒々しい足取りになってしまう。
その事にまた苛立ちを募らせていると、調理場の横に据えられた井戸から音がしてきた。
(曲者?)
よりによってこの忙しい時に、私の自宅に忍び込むとは。
周喩は先ほどの苛立ちを一瞬にして抑え、気配を殺し腰に吊るしてある愛用の炎烈鎧、「穿神」をそっと構え、井戸の横にうずくまる白い影の背後に立った。
「何者だ。」
そう周喩が問うと、あからさまにその白い影がびくりと動いた。
「何者かは知らんが、ゆっくりとこちらを向け。」
内心は苛立ちが嵐のように渦巻いているのに、外に発する声はどこまでも冷徹なものだった。
その声に恐れを抱いたのか、その白い影の者はがたがたと震えだした。
「聞こえなんだか?こちらを……」
そこまで言いかけた周喩は、段々と暗闇に慣れていく自分の眼を疑った。
小さく、震え惑うその白い影は、先ほどまで周喩が探していた陸遜だったからだ。
「陸、遜か?」
その問いに白い影、陸遜は震えながらゆっくりと周喩を振り返った。
「何を、していた?」
「ごめんなさいッ!!」
陸遜は周喩の問いには答えず、ただ顔を伏せてひたすらに謝るのみだった。
その態度が先ほどの苛立ちを更に増徴させて、周喩は陸遜の二の腕を乱暴に掴み無理やり身体ごと顔を上げさせ揺さぶる。
「何をしていたのだと聞いているのだッ!答えよ陸遜ッ!!」
知らず知らずの内に、問う声も怒声となっていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……ひっく、ごめん、なさい……。」
周喩の声に完全に怯えた陸遜は、同じ謝罪を繰り返し最後には嗚咽と共に同じ言葉を繰り返す。
その幼い姿に周喩は我に帰り、彼の姿を改めて見た。
白い寝間着のまま、何故か手にはびっしょりと濡れた敷布を固く握り、しっかりと胸に掻き抱いている。
井戸の横で濡れた敷布、となればどうやら彼はその敷布を洗っていたのだと推測される。
固く眼を瞑り涙に濡れた陸遜の顔を見れば、怯えに色がありありと浮かんでいる。
そこで自分の怒声が、どれほどこの子供を怖がらせているかをようやく周喩は理解し、大きく嘆息しゆっくりと、穏やかに話し掛けたのだ。
「……声を荒げて、すまなかった。とりあえずここにいては風邪を引く。敷布はここに置いて、部屋に戻るぞ。」
ぐっしょりと濡れた敷布を抱えているのだ。寝間着も相当その水を吸っているに違いない。
その敷布を半ば奪うように陸遜から離し、とりあえず傍らの桶に無造作に放り込む。
春先とはいえこのままでは風邪を引かせてしまう、そう思い未だに怯え震える陸遜を抱き上げる。
途端に陸遜は慌てて周喩から逃れようと、身体を引き離そうと腕を突っぱねた。
「あ、あのッ!お着物が汚れてしまいますッ!!自分で歩けるのでどうか下ろしてくださいッ!!」
頑なに周喩から離れようと腕を突っぱねる陸遜を強引に抱え上げると、陸遜の寝間着、主に下半身がしっとりと濡れている感触を受けた。
その事に多少驚いたものの、そんな事はおくびにも出さずにそのまましっかりと陸遜を抱き上げ、暴れる彼の身体を力で押さえ込み、「平気だ。」と、一言そう言って陸遜を下ろそうとはしなかった。
一方、どんなに体を突っぱねても下ろしてはくれない周喩に、陸遜は仕方が無く体を強張らせながらも、周喩に身を任せたのだった。

 異聞冒頭