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その日内裏は上へ下への大騒ぎだった。
いや、今日も、と言うべきか。
天子がおわすこの内裏に物の怪が忍び込んだとの事で、天子の住まいであるし寝殿を中心に警備が厳重にしかれていた。
だが、内裏は元々怪しげなもの、狐狸妖怪の噂、果ては呪詛などが日常的に行われているところである。今さら何を、と言う者も少なくは無い。
しかし、今上帝はその手の噂に非常に敏感になっており、少しでも御身の耳に怪の言葉一言でも入ろうものなら、今夜のように陰陽師、僧侶、薬師などを呼び寄せ加持祈祷をさせ、内裏の周囲を一晩中鳴弓させるために、警護の者を配備させていたのだ。
今日も不用意な者が、あるいは不心得者が怪の噂を天子の耳に入れたのであろう、そう思いながら六位の蔵人である緋勇龍麻朝臣は天子の警護に当たるべく清涼殿の廊下を渡っていた。
本来なら今日彼は非番である。
だが、天子の秘書官であり、時に天子の側近くに仕え直接警護に当たる事もある蔵人である彼は、天子の急なお召しにより参内したのである。
特に緋勇は今上帝の気に入りの者であるから召されるのは当然といえよう。
その彼が参内するとあって、御簾の内側から好色ばった女房達の無遠慮な視線が緋勇に注がれていた。
彼は現在18歳。先帝の子供であり今上帝の異母弟ではある彼は先帝の第四子であり、母が身分の低い更衣で会った為、幼い頃早々に臣下へと降下されたのだ。
だがその尊き宮筋の血が一番色濃く出ているのは彼であろう。
その気品と品格、身分で相手を選ぶことなく平等に接する公平さ、弱き者への労わりや優しさに加え天女かと見まごうその顔立ちから、今上帝の側近くに仕える蔵人となったのだ。
だがその恵まれた才能がある分、彼をひがむ者も少なくは無い。
現に今も御簾裏でどんな事を言われているのか、想像に難くは無かった。
その羽衣の如き視線と、針の視線を受けながら、丁度庭に面した廊下に行き着いた時だった。
白砂利を敷き詰めてた庭を見渡すと、丁度警備にあたっている武士団が鳴弓を命じられ一心に弓をかき鳴らしているところだった。
とにかく一晩中鳴弓を絶やしてはならぬとの命だったので、さすがに貴族達や武士だけでは追いつかず、特例として内裏に放免を入れさせたのだ。
放免とは元罪人であり現在の警視庁に当たる検非違使庁の機動部隊である。
元罪人であるだけあり荒くれ者が多く、過度に自身を飾るものが少なくは無い。
そんな中、一際身体の大きな放免が緋勇の目に止まった。
ざんばらに切られた髪を無造作に後に一つで縛り、周囲に比べればあまりにも粗末な着物の下には鍛えぬかれた筋肉が隆々としていた。さりとて厳つい感じはまったく無く、しなやかな柳のような身体はむしろ美しいと思えるほどだった。
お世辞にも逞しいとは言いがたい自分の身体を見て、緋勇は憧れの眼差しで彼を見つめていた。
(何と言うか、今にも鎖を引き千切ろうとする野の獣を思い起こさせる方だな。)
と思った矢先、その放免の男がいきなりこちらを振り向いたので緋勇は慌てて目を逸らした。
(驚いたな、武芸の達人は気配だけで人を探れるというから、彼もそうなのであろう……)
そしてこちらを見た時の彼の双眸が、月の光を帯びたかのように青白く光っていた事を、無理矢理頭から追い出したのだ。

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