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この空間は、ただそこに立っているだけで、周囲に満ちた甘い香りに惑わされそうになる。
それはカカオの芳ばしい苦味、生クリームの眩暈するような甘さ、フルーツの弾けた酸味、シナモンの刺激、シャンパンの酩酊を誘う酒気、そして…
「ねえねえ、コレなんていいんじゃない?」
「んん、でもちょっと高いよー、もう少し安いのにするよ。」
「ばっかねー、これっくらい気張らないと気持ち伝わらないじゃん。」
「これ甘すぎない?」
「きゃーッ!これ可愛い!絶対これこれーッ!」
恋する乙女にとって、最大の戦場と化したそこは、デパートの食料品売り場、その菓子専門店街。
充満するカカオや生クリームの香りよりも、女性の甘い熱気に緋勇は当てられていた。

青いリボンと白いレース

「…どうしよう。」
彼、緋勇龍麻は人生で最大の決心でこのデパートに訪れたのだが、実際にその場所に立ったのならまったく自分が異次元の存在に思われて二の足を踏んでいた。
そして、男の緋勇は当然女性の戦場には目立つ存在と化し、奇異と好奇の目で見られることにそろそろ限界を感じていた。
「や、やっぱ明後日にでも買いに来ようかな…。」
明後日になればチョコレートのイベント性も無くなり、このチョコレートたちも幾つかは特売品となり売られているだろうから、自分が買いに来てもさほど不自然には見えないだろう。
そう思い直すと、緋勇はその場所から離れようとした時だった。
「やっだーッ!龍麻じゃない。どうしたのこんな所で。」
ぽんと叩かれた肩の衝撃に、どきりとしながら振り向くと、そこには艶やかな微笑を湛えた藤崎が立っていた。
「あ、ふ、藤崎さん…。」
緋勇は自分の軽率さに、改めて悔やんだ。
そうだ。女性にとって最大のイベント日前日。仲間内の女の子達がここに訪れる事などありえない話ではない。
「ふ、藤崎さんは、やっぱチョコレートを買いに?」
自分の話題から話を逸らそうと、緋勇は藤崎の事を取り上げた。
「あはは、あったりまえでしょう。私も色々大変なのよ、まず舎弟の男の子達のでしょ?それから下僕の男共、それからもちろん本命の男の子のチョコレート!あ、もちろん本命は龍麻のよ。楽しみにしててねv」
「え、ええ?!」
思わぬ告白に戸惑う緋勇を、嬉しそうに藤先は眺めていたが、ふと思った疑問を口に出した。
「でも、何で龍麻がこんな所にいるの?他の買い物って訳でもないよね?」
「う、そ、それは…」
ここで買い物の途中で立ち寄っただけだ、と気の効いた言葉でも出るのならいいのだが、いかんせん根っからの正直者と仲間内でも有名な緋勇である。ましてや一緒に闘った仲間である藤崎の前である。途端に緋勇の顔が真っ赤に染まっていく。
「い、いや、その…」
目じりを見る間に紅に染めていく龍麻に、藤崎はしばらく呆然と魅入っていたが、やがて眉間に皺を寄せた複雑な表情になると、やがてぱっと薔薇が咲き誇るような笑みを浮かべると、緋勇の腕に自分の腕を絡ませて売り場の中心へと引っ張り歩き出した。
「ちょ、あ、あの藤崎さん?!」
戸惑う緋勇を他所に藤崎は色んな店のショーケースを眺めてはまた次の店へと緋勇を連れまわした。
やがてある一店が藤崎の御めがねに適ったらしく、その店のショーケースを指差した。
「ねね、龍麻、このお店のチョコレート、渋くていい感じじゃない?」
藤崎の指したショーケースの中には、グリーンの抹茶がコーティングされたトリュフが綺麗な箱に一粒ずつ収まっていた。
「あ、ああ、そうだね……。」
確かに、これならば彼も食べてくれそうだ……。
「じゃあ龍麻、これ買ってv」
「へ?」
突然の申し出に、緋勇が呆然としていると、藤崎は緋勇の腕に豊満な腕を押し付けて甘えるようにチョコレートをねだる。
「わわわ、ふ、藤崎さん、む、胸ッ?!」
「いいじゃない、私もチョコレート上げるんだから、龍麻も私にチョコレート買ってよ。」
傍から見ればどう見ても恋人同士にしか見えない二人の会話に、周囲にいた女性達が憧れと、そして少々嫉妬の交じった視線を向ける。
その視線に藤崎は優越感を感じながらも、そっと龍麻に耳打ちしたのだ。
(で、如月のイメージって何色?)
(え、えええッ?!)
藤崎の思わぬ言葉に緋勇はうろたえながら彼女を見た。その視線を受けて藤崎は艶然と微笑みながら更に答えを促す。
(ほら、私が代わりに買って来てあげるから、如月のイメージって何色?綺麗にラッピングしてもらうんだから。)
藤崎の言葉に、彼女の心遣いと、そして何故か彼女には緋勇の何もかもがお見通しらしく、そのバツの悪さも交じった照れが龍麻の目じりを熱くしていく。
「あの、藤崎さん、あ、ありがとう…」
秀麗な顔に幼さを感じさせる目元の表情に、藤崎は比護欲を掻き立てられる。
「んもう!そんな顔しないでよ。いじめたくなるでしょ!で、何色?」
藤崎に促されて緋勇は彼を思い浮かべた。
彼の、如月のイメージは、どこまで澄んでそしてどこか切れるほど冷たい……
「…青色。」
「分かったわ。」
緋勇の言葉を受けて藤崎は店員にあれこれと注文し始めた。
「そうそう、そのチョコレート。で、ラッピングは…違う違う!そっちのコバルトブルーの!そうよ、でリボンは……」
その藤崎を眺めながら、緋勇は何気に周囲の女の子達に視線を移した。
彼女達もまた、どのチョコレートがいいか、どうやったら気持ちを伝えられるか、どんなラッピングがいいか、など友達同士で話し合ったり、一人で悩んでいたり、でもどこかとても楽しそうにチョコレートを選んでいた。
ああそうか、彼女達も今、こんな気持ちなんだ……
どきどきとして売り場に訪れ、いろんなチョコに目移りしながら、どれなら彼が食べてくれるか、どんな言葉で彼にチョコを渡そうか、色んな思いを胸に秘めながら……
もし、自分が彼にこんな想いを抱かなければ一生彼女達の気持ちに共感なぞ受けなかっただろう。
俺って、ちょっと可愛いかも?
そんな自分の気持ちにクスリと笑いを洩らすと、藤崎が肘をつつき清算を済ませるよう促した。
緋勇は慌てて清算を済ませうると、そのまま藤崎に腕を組まれながら売り場を後にした。
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