ボム・メール Letter 5 -Last Letter-
 気がつくと、病院にいた。目を開けると、白にまとめられた殺風景な部屋の天井が見え、鼻に消毒液の独特なにおいが侵入してきた。
「ああ、気が付いたの……」
 ベッドの左側に、椅子に座ってこちらを見つめている母親がいた。どうやらあれこれと世話をしてくれていたらしい。
「あなたね、横断歩道の真ん中で急にうずくまって、その瞬間に車にぶつかったの。すぐにパトロールしていた横山さんが救急車を呼んでくれてね。うちに電話してくれたのよ。ぶつかっただけだったから、大した怪我はしていないけど……先生が、まだ精密検査があるから入院しなさいって」
 わたしは黙ってうなずいた。喉がひどくかわいていて、声を出すのが辛かったのだ。
「病気なの、わたし?」
 ささやくようにきくと、お母さんはゆっくり首をふった。
「特に病気のような症状はないし、大丈夫だろうって」
 てっきり、不安と恐怖で心臓発作を起こして死んでしまうのだと思っていた。今生きているということは、心臓に何か病気があったのかと思ったりもしたのだ。
「ねぇ……。お母さんは、悪魔を信じる?」
 わたしは不意にボム・メールのことを思い出した。
 悪魔なんているはずないじゃないの。そういう優しいお母さんの声がききたくて、わたしは無邪気にたずねていた。
「信じるわ」
 間髪入れずに答えが返ってきた。
 それは、間違いなくお母さんの声だった……。
「悪魔はね、人の形になれなかった人間だと思うの。だから、悪魔は人間に対してイタズラをしかけてくるんだと思う。それがきっと、今回のようなあなたの不幸になるのよ」
 お母さんは、わたしを諭すように、落ち着かせるように言った。
「そして、ボム・メールも……」


「今……何て?」
 娘はひどく驚いた様子だった。
「ボム・メールはね。お母さんが作ったの」
 娘の丸い目がわたしに何かを訴えかける。だが、わたしは何もいえない。
「偽名を使ってボム・メールを書いて、お隣の内場さんに出したの。わたしの名前には"A"が入っているし、内場さんなら"B"がはっているでしょ。本当に、思いついたときはイタズラだったの」
 四ヶ月前、隣に引っ越してきた内場紀子は、わたしが大学生だったときの美術部の後輩だった。才能のあった紀子は、優秀だったわたしを出し抜いて、県で金賞を受賞した。紀子のことは褒めてあげたし、紀子もわたしの絵を褒めてくれた。
 やがてわたしは退部し、紀子は部長になった。名残として、わたしたちの絵は部室の前に飾られた。だが退部して数日後、わたしの絵は突然部室の前から姿を消した。
 その日の放課後、静かに美術部の部屋を覗くと、わたしの絵は部屋の隅に置き捨てられていた。しばらくして、紀子率いる部員たちが絵を袋に入れた。それは紛れもなくゴミ袋だった。
「わたしはあなたを困らせたかったんじゃないの。内場紀子が嫌だっただけ」
 けれど、ボム・メールはめぐりめぐって"Y"の番で娘にまわってきた。うちの苗字は吉澤だと、手紙が来たのを知ったときに初めて気がついた。
 娘がどうするのか見ていたが、今入院して横たわっている娘をみると、ボム・メールなど内場紀子を苦しめるのには必要なかったのだと思った。
 紀子は白い便箋と青い折り紙を見たとき、思い出しただろうか。
 真っ白なキャンパスに青い空が描かれ、やがては捨てられた不幸な絵のことを。自分が傷つけた絵と、その作者のことを。


「でもわたし、死にかけたね……」
 わたしは病室の空中をぼんやりと見つめ、お母さんから視線を逸らした。それでもお母さんの視線は、わたしに突き刺さっていた。
 そんなお母さんが可哀想で、でも何故か嫌だった。
「悪魔のイタズラは絶対だから―― ……」
 だけど、わたしは悪魔なんて信じない。悪魔は、人間がイタズラに作り出したものだから。






 <終わり>
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