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「うっわやっべーッ!生物の教科書忘れちまったーッ!!」
「犬神の野郎、今度赤点取ったら夏休みの間補習だってよ…。ついてねーなあ……」
「ねね、知ってる?犬神先生って、メガネ取ると結構若いんだよ。」
「そういえばさ、この間犬神先生が言ってたんだけど……」
「この間の日曜日にさ、新宿で犬神見たぜ。あいつが白衣着てないと何か変だよな。」

何故だろう?
ここ数日、犬神先生の噂がやけに耳に入る。
転校したての頃は、そんなに噂話なんて聞かなかったのに……。
それともここ数日で先生の人気でも上がったのかな?
でも、俺の見ている限りじゃあ全然変わったところなんてないし、何でだろう?
これって不思議だよね。
どれもこれもたいした噂じゃない。
ほんと、日常のような噂話。


高校教師  噂


ぱこん、というやけに軽い音が教室に響き渡る。
それは居眠りをしている生徒に対して、もしくは不真面目な態度の生徒に対して容赦なく繰り出される、犬神の必殺技である。
だが今回繰り出された技は、音に比例してその威力をごくごく弱めに設定されたらしく、いつもの重い音ではない。
いつもの重い音とは、教科書の角を脳天目掛けて振り落とされる、鈍いあの音だ。
今回の技は、甘めの設定らしく、丸めた教科書の一番柔らかい部分での技だ。
犬神にしては大甘の甘ちゃんである。
「緋勇……、俺の言った事を聞いてなかったのか?」
突然頭に受けた衝撃で一瞬頭の中が真っ白になった緋勇は、犬神の言葉をうまく飲み込めないでたい。
「へ?え、ええ?!」
ようやく犬神の言葉を理解した緋勇だったが、犬神の言っている内容が頭のどこにも残っていない。
それを見かねた隣の美里がそっと助け舟を出してくれた。
「龍麻、教科書の38ページ、問い5の問題の答え。」
そう言われて緋勇は慌てて教科書をめくり始めた。
その姿に教室のあちこちからくすくすと笑い声が湧き上がる。
「目を開けたまま寝てたのか?しょうがない、代わりに蓬莱寺、答えろ。」
「げッ!何で俺なんだよ!!俺が答えられる訳がッ!?ってーな!!」
蓬莱寺が言い終らない内に、教室に音が響いた。
今度はいつもの容赦ない、鈍い音。
「そんな事を堂々と言う奴があるか。」
その日、何時もよりも少しばかり生物の時間は騒がしかった。


「でも珍しいよね、ひーちゃんが先生に叱られるのって。」
そう言いながら、小蒔はちるるとフルーツ牛乳を啜った。
「ばーか、あんなの叱られた内に入るか。」
ふてくされながら、蓬莱寺はイチゴ牛乳を啜る。
「ふふふ、京一君に言わせれば確かにそうよね。」
あくまで笑顔を絶やさずに美里は、面白そうに話しながら烏龍茶を啜る。
「み、美里……」
その美里に、少しばかりの脅威を抱きながら蓬莱寺は美里から距離を取った。
「で、珍しく何を考えにふけっていたんだ?」
そんな蓬莱寺を無視して、醍醐はコーヒー牛乳のビンから口を離して今日の主役に声をかける。
声を掛けられ、ストローでちるると農協印の牛乳を啜りながら、器用にうーんと唸りながら言葉を捜す緋勇。
「いや考え事っていうか、犬神先生を見てたらさあ、この前聞いた先生の噂話とか色々思い出しちゃって……」
「先生の噂話?」
と一同声を揃えて緋勇を見る。
「うん。何か変な噂が多いなあって思ってたんだよね。例えば先生は準備室で謎の研究をしているとか。」
「何だそれ?!」
蓬莱寺の素っ頓狂な声につられて緋勇も笑う。
「変だよねえ。その根拠ってのが、……満月の夜、誰も居ないはずの準備室の中から、この世の物とは思えぬ呻き声が聞こえてくる……。」
わざとらしく一段声を落としてぼそぼそと語る緋勇を、半ば呆れながら蓬莱寺はぼそりと呟いた。
「その出所、杏子だろ。」
くすくす笑いながら緋勇は「あったりー」と拍手する。
「杏子ってば、夜中に学校に潜り込んだのかな。」
「あいつならやりそうだな。」
「あ、潜り込んだって言ってたよ。」
蓬莱寺の言葉をあっさりと肯定する緋勇に、全員が大きな息を吐く。
「あの馬鹿……」
「で噂の真相は?」
杏子の行動力に呆れるよりも、小蒔は噂の真相に興味深々のようだ。
「準備室にたどり着く前に、丁度宿直の犬神先生に発見捕獲されましたとさ。」
「なーんだ……」
残念そうに呟く小蒔に、蓬莱寺がぼそっと呟いた。
「あいつ、絶対犬神が宿直の日を選んで忍び込んだんだぜ。」
さて、真相はともかく、と前置きしながら緋勇はこれまでに聞いた犬神に関する噂を指折り話していく。
「他には先生の眼鏡は伊達だとか、先生に歯向かった生徒が一週間姿を消したとか、新宿で先生を見かけたとか……」
「うへえ、あいつが新宿……」
「うん、で、白衣着てない先生って何か変だなあとか考えてたら……」
「脳天一発。」
「その通りでして。」
小蒔に言われ緋勇は困ったように、自分の頭を摩りながら笑った。
「でもそんな噂話とか、よく知っているな龍麻」
どこか不思議そうに尋ねる醍醐に、これまた不思議そうに緋勇はきょとんとしていた。
「うん?そうかな、でも最近犬神先生の噂話とかよく聞くんだけど……みんな聞いたこと無いの?」
「俺は目の前に突きつけられてもごめんだね。」
蓬莱寺は例え噂を聞いても、瞬間に脳内から記憶を削除しているようだ。
「僕もあんまり聞いたことが無いなあ……」
小蒔もやはりあまり聞いたことが無いようだ。
ただのランチタイムの他愛も無いお喋りだ。
だが、一人だけ美里が、やや複雑な顔でいるのに蓬莱寺が気が付いていた。


次数制限の都合により続きます……
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