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犬神が準備室で授業の準備に追われていると、外から元気な声が聞こえてくる。
丁度、3−Cの生徒が体育の授業をしているところだった。
何気なく見ると、緋勇が丁度サッカーでゴールを決める瞬間が犬神の目に入ってきた。

不思議な生徒だ。
そう犬神は思った。
初対面では明らかに自分を怖がっていた節があるのに、言葉を重ね会話を重ねていくうちに、あっという間に生徒の中で一番会話をする生徒になっていた。
暇を見つけては、自分の根城である準備室にコーヒーを飲みに来るようになった。
他にも準備室のコーヒーを目当てに犬神の元を訪れる物好きな生徒が、数人いる。
だが、と犬神はふと思う。
彼が訪れる瞬間の、自身の心を。


高校教師    期待


「せんせー、プリント回収してきましたよ。」
犬神の思考を遮るように、犬神の受け持ちのクラスの生徒である遠野杏子が、ノックも無しに入ってきた。
「おお、ご苦労。」
おざなりに労いの言葉をかけながらも、犬神は視線をグラウンドに向けていた。
「本当ごくろうですよ。ったく、宿題のプリントぐらい自分で回収してくださいよ。」
文句を言いながら遠野は、抱えていたプリントをわざとらしく机の上に乱暴に置いた。
たかだか数十枚のプリントである。それをドサリと音を立てながら置くというも、一種の才能だろうな。と場違いな事を思いながら犬神は口を開いた。
「回収しようとしたらまったくやって来ない生徒が多くいたんでな。心優しい先生が提出期限を今日の放課後までに延ばしてやったんだ。ありがたく思え。」
「自分で優しいとか言わないですよ、ふつー。」
「そういやお前もその不届きな生徒だったな。ちゃんと提出したんだろうな」
「え?いやー……」
犬神の質問に、あらぬ方向に視線を泳がせながらどもる遠野に、犬神は大きくため息を一つ吐く。
「どうせ他の奴らも何人かは提出してないんだろう。しょうがない。」
思わぬ「しょうがない」という発言に、遠野は自分の思考を都合よく修正する。
「え?お咎めなし?」
なんて、世の中甘くも無いわけだ。
そんな世知辛い世の中の摂理を、犬神は少しばかり口の端を持ち上げて突きつける。
「夏休みの補習は、覚悟をしとけ。」
「……ごめんなさい、来週中には、かんっぺきに仕上げてきますお代官様。」
「お代官……って、お前年ごまかしてるだろ……」
しかし遠野は、宿題の話はこれでお終いと言わんばかりに、先ほどまで犬神が覗いていた窓に寄りかかった。
「ところでせんせー、さっきから何を熱心に見て……って、何女生徒のぶるまー姿を見てるんですか。やらしーなあ、新聞ですっぱ抜いちゃいますよ。」
この遠野なら本当にそれくらいの事をやりかねない。
だが犬神も慣れたもので、その脅迫とも受け取れる言葉を柳のように流す。
「あほ、そんな訳あるか。脅しとしても根拠が薄すぎるしな。」
「ああ……やっぱ分かっちゃいました?」
暗に、遠野は新聞に書かない代わりに夏休みの補習を無しにしろ、と言っていたのだ。
「それよりもプリントはもう少し待ってやるから、早くやってこい。」
「はーい、でも本当に女生徒のぶるまー姿を見てなかったんですか?まあ割と枯れてそうだけど……」
女子高生に「枯れている」などと言われれば、嫌でも自分の「おじさん」具合がダイレクトに伝わり、さすがの犬神でも少しばかりショックを受ける。
「……枯れてはいないが、それ程飢えちゃいないし、不自由もしてない。」
まあまあ、強がりは言わないでいいですよー、などと言いながら、遠野は何と無しに犬神の根城である準備室を一望した。
「ねえ先生、さっきから思ってたんですけど……」
「何だ?」
「そういえば何か先生の根城が……」
「根城が?」
「ちょっとだけ綺麗になってませんか?」
そう言われれば、最近モノが取りやすくなったと思いながら、犬神は新しい煙草に火を付けた。
「ああ、そういえばそうだな。ああそうか、たまに緋勇が掃除を……」
「え?ひーちゃんが??何でどうしてありえなーーい!!」
犬神が理由を言い終えない内に、遠野はありえないぐらいの驚愕の声を上げた。
その声に銜えていた煙草を落としそうになったが、辛うじて堪え年季の入った犬神のズボンに穴が空く災難を避けた。
「……ありえなくは無いだろう。まあたまにここへコーヒーを飲みに来てるからな。ま、その礼のつもりだろう。」
「やーん、ひーちゃん真面目だからなあvv」
何故か遠野はくねくねと身体をくねらせる。
「まったくだ。お前もあいつの10分の1でも真面目にしてくれたなら、俺の気苦労も減るんだがなあ……。」
「やだ先生。そりゃあ無理ですよ。あーんな真面目になんかできませんよッ!」
「……堂々と胸をはらんでくれ。」
曲がりなりにも自分の教え子が、間髪を入れずに否定した事実に、今度は少しばかり犬神の教師としての矜持(?)が少しばかり揺れる。
「それじゃあこれで退散しまーーす。」
そんな犬神の気苦労も知らず、遠野は喋りたい事も喋ったと言わんばかりにそのままあっさりと犬神の根城を後にする。
そこでようやく一息を入れた犬神だったが、遠野が去り際に置いて行った言葉に、少しだけ犬神の顔が緩んでいた。

「そういえば先生、今日は良くしゃべりますよね。機嫌がいいんですか?」

確かに、機嫌がいいのかもしれん。

何気なく外に目を向けた。
そこに少しばかり話をするようになった生徒がいた。
そしてその生徒が、ありふれた日常を謳歌するように笑っていた。
これから踏み出す人生に、大いなる期待と少しばかりの不安を抱きながら……
そんな笑顔が、彼の表情から伺える。

そんな心理を、何と無しに感じることが出来る。
その事が、ほんの少しだけ嬉しくて犬神の頬を緩ませる。

あいつは、今日もここに、コーヒーを飲みに来るのだろうか?
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