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その日も、緋勇は生物準備室へとタダコーヒーを飲みに軽い気持ちでその扉を開けたのだったが、開けた扉の向こうには、滅多に見れない華やかな(?)笑顔が出迎えた。
「よう緋勇、いいところへ来た。まあ入ってコーヒーでも飲んでいけ。」
その、心持ち楽しそうな笑顔は、緋勇には当然悪い予感しか与えぬものであった。
故に、その場で回れ右をして準備室から脱走を試みたのだが……
がしッ。
と、これまた見かけによらず力強い腕に肩を掴まれ、逃亡失敗。
「まあ遠慮せず、寄っていけ。」
寄っていけ。つまりそれは強制の言葉。
緋勇は、引きつった笑顔のまま準備室に引きずられるように拉致されたのだった。


高校教師  不意打ち


「ちぇ、せっかくコーヒーが飲めると思ったのに……」
「飲んでるじゃないか。」
「いえいえ、タダで、という事です。」
ちょきちょきとハサミを繰りながら、緋勇は申し訳程度にスペースを開けられたテーブルに置いてあるコーヒーをちらりと見る。
「働かざる者飲むべからず。」
「はいはい。」
緋勇はとっくに諦めたように、テーブルのコーヒーをずずっと啜りながら、手元にあるいくつかのプリントされた写真を見た。
「今回のコレって、もしかして……」
「ああ、修学旅行のしおりだ。」
そこには神社仏閣の写真、それに付随する資料が何枚もあり、緋勇はそれを鋏でちょきちょきと切り取りながら原稿に貼る、といった地味な作業を仰せつかったのだ。
そういえば、犬神も机のパソコンを繰りながら何やら文章を打ち込んでいる。
「こういう作業って、先生がやるんでしょ?」
そんな当たり前の疑問に、犬神は銜えていた煙草を一層深く吸い込みながら、今回の経緯について語りだした。
事実上、愚痴というやつだ。
「本来なら、こんな作業俺はやりたくなかったんだが、運悪くあみだくじで負けた。」
ただでさえ三年の担任ともなれば進路指導やらそれに伴う資料作りで忙しい時期だ。煩わしい作業はごめんこうむりたい。
だがそれは他の教員達も同様だ。そこで発案(?)されたのが「あみだくじ」だった。
「……せんせい、くじ運わるいですか?」
「くじという類のものを買ったことはないが、そうだな、当たりを引き当てたという記憶は無い。」
「……ご愁傷様です。」
どこか自慢気に高らかに宣言し、さらにとどめとばかりに犬神は告げた。
「それに俺はそういう細かい作業は苦手だ。」
そう言いながら、犬神は新しい煙草に火を付け深く吸い込んだ。
これでは当分この作業からは開放されないだろうと、犬神にならい緋勇は思いっきり息を吸い込んだ。
途端、真新しい煙草の煙が緋勇の喉に絡みつき緋勇が小さく咳き込んだ。
その咳に、犬神は少し驚きながら火を付けたばかりの煙草を灰皿に押し付けた。
「すまん、今更だが煙草の煙がきついな。窓を開けるか?」
そう言って机のすぐ側にある窓に手をかけようとした犬神を、緋勇が慌てて制した。
「いえ、いいですよ。風で資料が飛んじゃいます。それに煙草は結構平気なんですよ。さっきはちょっと大きく深呼吸しちゃって、変な所に煙が入って咽ちゃったけど。」
「本当に大丈夫か?」
「はは、大丈夫ですよ。俺のおじいちゃんが、俺の祖父が煙草もお酒もすごく呑む人だったからむしろ……好きなんです。」
突然、犬神は背中を軽くとん、と押されたような感覚に襲われた。
「え?」
「煙草の香りのする人って、好きなんですよね。あ、勿論俺は吸いませんけど。」
「……そうか、なら、いい……。」
そして先ほどとは違い、途端に無口になってしまった犬神に釈然としない緋勇だったが、とにかく作業を終らせなければと再びハサミを繰り出した。

暫く、準備室は犬神のキーボードを打つ音と、緋勇が紙を切る音だけが響いた。



緋勇が準備室を出てから、どれくらい時間がたったのだろうか。
窓の外にはもう星空が広がり、とうに守衛が校内を巡回する時間にまでになっていた。
それでも、犬神は先ほどの軽い衝撃を忘れずに、そして理解できずにいたのだ。
(本当に、さっきのは何だったんだろうか?)

緋勇の口から、ただ単語が発せられた。
その後に犬神を襲った背中の刺激。
衝撃、とまで大げさなものではなかった。ちょっと背中を押されたような軽い刺激だ。
だがそれは時間が立つにつれ、痛みが大きくなっていくように感じられる。
そこでようやく、それは犬神の心臓が跳ねている痛みだと理解した。
(……止めだ。)
そして犬神はそこから先の思考を止めたのだ。
その先の結論を出すにはあまりにも早計で短絡的だからだ。
そうだ、聞きなれない言葉を不意に言われた。
だから自分は驚いただけなのだ。

そう結論付け、犬神は今日の出来事を忘れることにした。



※都合の悪いことは忘れる、それは大人の処世術。
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