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「こちらに犬神杜人殿という方はおられるだろうか。」
そこに、場違いな程の静謐な声が響いた。
それまでがやがやと卑猥な声が響いていた部屋が、静まり返った。
ここは京の近衛の北、堀川西にある検非違使庁、その一角に設えられた下部という最下位の役人の詰め所である。
役人といっても、位階があるわけではない。
彼らの別名を放免という。
軽犯罪を犯した罪人を釈放する代りにそのまま荒事の多い検非違使庁に仕えさせた者たちである。
故に罪を放免され検非違使庁に仕えるものをそのまま放免という。
元罪人だけあって素性は粗悪で世辞にも礼儀というものを知らぬ連中ばかりであるが、その連中ですら戸口に佇んでいる者を見て呆然とせずにはいられなかった。
その者は、最上の正装である黒の衣冠束帯を纏い、その両手に恭しく掲げるのはこれも見たことのない上質の漆箱。その箱は絹で出来た錦の紐で封ぜられている。
殿上人。
天子のそば近くに仕え、その寝殿に殿上を許された数少ない貴族達の呼称である。
その殿上人がこの馬屋に近いような詰所に現れたのでる。
普通ならその姿を拝謁することなく一生を終ってしまうような貴族中の貴族である。驚くな、という方が無理というものであろう。
しかも、その人物は現天皇の新任厚き人物であるから尚更のこと。言葉が出ないのも分かろう。
「あの、すみませぬが犬神殿は……。」
一向に返事のない事に不安になったのか、その殿上人は言葉を発した。
「は、はいーーーーッ!た、たたた只今呼んでまいりまするーーーーッ!!」
放免達は一斉に平伏して急ぎ所望の人物を、放免の一人が呼びに詰所を飛び出した。

「で、俺に何か用か?」
呼び出された人物は、どうやら昼寝の邪魔をされたことに腹を立てている様子で、その不快さを隠そうともせずに鷹揚にその殿上人の前で平伏する様子もなかった。
その態度に他の放免たちがはらはらと見守っていた。
「急にお呼び立てて申し訳ありません。ですが主上のお達しにてご容赦願いたい。」
静静とその人物は自分よりも明らかに下位の人間に対して頭を下げた。
その態度に周囲の放免達は元より、彼に付き従っていた随身達も驚きを隠せないでいる。
そんな彼らの心中など頓着せぬ当の本人達は、そのまま何事も無く会話を続けている。
「私は主上より蔵人六位を賜っている緋勇龍麻朝臣と申します。先日宮中にて怪異が現れた際、これを見事退けた功を労い主上よりこれを下賜するよう承り参りました。どうぞお納め下さい。」
そう言うと緋勇は横に置いてあった漆の箱を恭しく犬神の前に差し出し、その錦の紐をするすると解いた。
中から出てきたのは絹の反物が三つ、綾錦の袋に入った砂金だった。
「これまた随分と気前がいいな。」
犬神の身分から推し量れば、この褒美は破格の扱いだ。
「はい、あなたの活躍により怪異が去ったこと、主上は殊のほかお喜びのご様子です。どうぞ……」
「いらん。」
「え?」
緋勇が言い終わらぬうちに、犬神はその一言で切り捨てそのまま立ち上がり部屋を出て行こうとした。
「お、お待ちくださいッ!」
流石に驚いた緋勇は慌てて立ち上がり犬神の後を追いすがる。
後に残されたもの達はそれを呆然と見送るほか無かった。

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