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緋勇が目を覚ますと、そこには見慣れた天井が目に入った。
そこは彼が生まれ育った、東三条にある自分の屋敷であった。先帝の更衣であった母が、後宮で疎まれ病に伏したことを嘆いた先帝から賜った屋敷である。
緋勇も生まれて直ぐに降下した為、母と乳母、そして幾らかの随身と共に過ごした屋敷である。
主である母は既に亡く、今は緋勇がこの屋の主である。
「目、覚めたか?」
すぐ横で声がし、緋勇は重い頭を声のする方へと向けた。
「京一……。」
「……よかったーーーッ!!」
緋勇の意識が戻ったことに感極まったのか、京一と呼ばれた青年はがばりと緋勇に覆い被さり抱きしめた。
「!!きょ、京一、痛いよ。」
「うッ、すまねえ。だけど俺心配で心配で……」
京一と呼ばれた青年は、緋勇の乳母に当たる女の息子である。
幼い時、この屋に移るとき伴った数少ない随身の一人であり、今現在蔵人として役を賜っている緋勇の小舎人である。
今だ心配そうに覗き込んでいる京一に、緋勇は自分が一体どうしたのか、何故今この状況になっているのかを問うた。
「ああ、龍麻が検非違使庁でいきなり倒れたって言って検非違使の奴らがここに運んできたんだ。それで……」
京一はそこで言いよどむ。
「それで、その放免の一人が、自分は緋勇龍麻に召抱えられたって言うんだ。それ本当か?」
京一の言葉に朧げな記憶が蘇えり、はっとしながら京一を振り返った。
「え?じゃあここに連れてきてくれたのも……」
緋勇の言葉に京一はあからさまに嫌悪の表情を浮かべる。
「そいつが、龍麻を連れてきたんだ。」
「今その方は?」
「本当に?本当に召抱えるつもりなのか?あの胡散臭い放免を……」
京一の質問には答えず、緋勇は先を急かした。
「まだ屋敷にいるんだね?すまないけど、呼んできてもらえないだろうか?」
主である緋勇の言葉に、京一は消沈しながらも緋勇の命に従った。
「……分かった。」
暫くして女房に伴われた犬神が、緋勇の寝間に姿を現しそのまま礼を取り胡座のまま頭を下げた。
その行動に緋勇は驚き声を掛ける事が出来ずにいたが、先に犬神が声を出した。
「緋勇龍麻朝臣様には格別のご配慮を賜り厚く礼を申し上げる。何分にも東国の野卑た武士にて無作法はご容赦願いたい。」
先ほどの不遜な態度とは正反対に、犬神は恭しく緋勇に礼をとる。
「あ、あの……」
やっとの事で声を出した緋勇は、控えていた女房を無言で下がらせ、犬神の言葉を待った。
「今回、私の不遜な申し出を快くお聞き届け下さり感謝の言葉もございませんが、この犬神杜人、この身をもって仕えさせて頂く。」
伏せた顔が僅かに上がりにやりと笑った口が緋勇を捉える。
その時、堪らず几帳の陰から京一が飛び出してきた。
「龍麻!」
抗議しようとする京一を緋勇は視線で制し、そのまま犬神に居住まいを正して向き合った。
「私の方こそ、このような姿で申し訳なく存じます。犬神殿の件ですが、……何分にも前例無き事ですが、あなたのお力は主上もご承知の事ですし、おそらくお聞き届け下さると思います。それまで暫くは我が屋敷にてお留まりください。」
「はい、ありがたき幸せ。……さて。」
そこで犬神は今までの態度を翻し、検非違使庁で見せたあの不遜な態度に戻り顔を上げて態度を緩めた。
「形式は踏んだ。あとは好きにさせてもらうぞ。」
本来の犬神に戻った事に、緋勇は不思議なほど安堵した。
だがそれを快く思わぬものが一人。
「て、てめー!!許しもなく頭をあげるんじゃねーッ!!」
「あ、いいんだ京一。犬神殿はいわば主上の命の恩人だ。だから私に礼を取る必要は無いんだ。」
「でもッ!!」
「だとさ。主人の命令は大人しく聞いとけ。」
「この野郎……」
二人のやり取りを眺めていた緋勇は、どうやら京一と犬神は馬が合わぬようだと、内心ため息をついた。


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