▼7
緋勇が目を覚ますと、まるで昨夜の情事が夢ごとのように犬神の姿は無かった。
だが体中の軋みと首筋に付けられた所有の証。
そして朝になってもなお燻るような余韻の残るこの体。
それらが全て夢でないことを緋勇に物語っている。
そしてその余韻の残る体を抱え、緋勇は犬神を伴って初めての参内をこの日迎えたのだった。

緋勇はどんな顔で犬神と会えばいいのか思い悩んでいたのだが、結局その日最初に顔を合わせたのは緋勇が出仕する直前、牛車の傍らで膝を折り控えている犬神だった。
犬神はこざっぱりとした水干を着け、ぼさぼさに伸びていた髪もどうやら女房達に整えられたのかさっぱりとしていた。
だが表情までは窺い知ることが出来なかった。何故なら犬神は顔を伏せ従者のように(実際表向き緋勇の従者なのだが)緋勇が牛車に乗り込むまでその顔を上げなかったからだ。
その犬神の態度に、思いの外がっくりとした自分の感情に驚きながら緋勇は牛車に乗り込み御所へと向かった。

出仕して驚いたのは主上が犬神の内裏へ入ることを許可するというお達し。
どうやら犬神の力を目にしてどうにか側に置きたいということらしい。
流石に寝殿内への参内は許可されなかったが、緋勇が勤務している間は内裏の滝口の陣に犬神は置かれた。
犬神は、昨夜の事が嘘のように普通に緋勇と接している。
だが緋勇はどうにも顔が火照ってしょうがない。
上司の蔵人頭にも心配された。
その日、何事もなく参内を終えた緋勇は内裏の蔵人所町屋に向かった。
蔵人達は普段はこの町屋にある曹司(現在でいうワンルーム)に仮住まいをしているのである。
犬神は一応緋勇の小舎人という役職を与えられているので、帰宅した緋勇を迎えるべく淡々と仕事をこなしていく。
小舎人は彼ら官職に仕える雑用係といったところか。
主に身の周りの世話から食事の配膳まで色々とこなす、思いの外仕事量の多い役である。
それに習い、犬神も緋勇の身の周りの世話をする。
犬神はただでさえ役職が多く、広大な内裏の中の各役所の配置と仕事の内容を一日で覚えてしまったらしく、緋勇の着替えと足を洗うための水等を手際よく用意した。
その犬神の仕事振りに、緋勇は逆に慌ててしまい足洗いの桶に足を入れるのを躊躇っていた。
「あの、い、犬神殿……」
ためらう緋勇を無視して、犬神は無言で座るよう命じる。
緋勇は仕方なく座り、桶の水にそっと足を入れた。
そして犬神は懐から清潔な布を取り出すとおもむろに緋勇の足を洗いながら、緋勇にしか聞こえぬ程度の小さな声で、何時ものあの口調で緋勇に話し掛けた。
「小舎人に殿など付けるな、周りに怪しまれるぞ。」
そのいつもと変わらぬ犬神の口調にどこか安心したのか、緋勇の身体から徐々に緊張が取れ緋勇も犬神にしか聞こえぬ程度の小声で話し掛けた。
「は、はあ。しかし……貴方は……主上の恩人でありますし……」
「そんな事は気にするな。杜人、そう呼べ。」
主上の恩人を呼び捨てにする心苦しさを感じながらも、確かに、表向きは自分の従者である犬神に「殿」とつけるのは、かえって周囲に怪しまれるだろう。仕方なく緋勇は意を決して犬神の望む名で話し掛ける。
「あの、では、杜人……」
丁寧に緋勇の足を拭う犬神。自分の小さな足などすっぽりと包み込んでしまうその手の大きさ。直に肌に触れる犬神の感触。昨日の記憶に繋がる犬神の全てが緋勇を戸惑わせる。
「杜人、あ、貴方は表には出していませんが、いわば主上の警護役。私の世話などは他の小舎人に任します故どうぞ……」
違う。
本当は、犬神が側にいるだけでどうしていいか分からなくなるからだ。
だから犬神から一刻も早く離れたいのだ。
いや、それも違う。
離れたいと思う気持ちは確かにある。
だがその一方で離れたくないという思い、そして犬神が触れれば触れるだけ熱を帯びてくるこの身体。
それを犬神に知られたくない。
何とも複雑で、自分の感情を御しきれない戸惑い。
そう、それら全てから緋勇は逃げたい一心なのだ。
緋勇の心中を知ってか知らずか、犬神は緋勇の足を洗い終わり丁寧に水をふき取っていく。
「気にするな。随身で小舎人の俺がお前の世話をしないとなれば周りが疑うだろう。それに……」
そう言って犬神は、緋勇の足の裏を鋭い爪で軽く引っかいた。
その刺激に緋勇の身体が跳ね上がり、慌てて足を引っ込めようとする緋勇の足首を、犬神は乱暴に掴み引き寄せその細く白い足を自分の胸にかき抱いた。
驚く緋勇を尻目に、犬神はそのまま緋勇の膝に軽く口付けをする。
「お前の世話をするなんてこんな楽しい事を、他の奴に任す気になれない。」
楽しそうに呟く犬神を、緋勇は顔を真っ赤にさせながらただ呆然と見つめていた。
そんな緋勇を、犬神は面白そうに眺めながら身体を近づける。
「ん?何だ、身体に力が入らないのか?しょうがないな。」
そう言うと、犬神は喉を鳴らすような笑いと共に緋勇をひょいと抱え上げると、そのまま緋勇の曹司に向かい歩き出した。
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