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私は、人を不幸にするのだろうか?
そんな事最初は信じなかった。
たとえ宮中で根も葉もない噂話のタネにされようとも、そんな事信じたくは無かった。
だが、私が生まれたから、母は疎んじられて宮中を追われたとのだという事実を知り、そして私の事を気に掛けてくださる方々が次々と左遷され、果ては私が想いを寄せた女人たちが不幸な末路を辿った時には、私自身その事を受け入れていたのかも知れない。
だから、そんな私に立派な役職を与えてくださり、何とか一屋敷の主として体裁を整えて下さった異母兄であり現帝に、私は心から仕えようと決心したのだ。
だから、この身を呈してでも御身を守ろうと、私は蔵人の役を賜ったときに誓ったのだ。


「ここの奴らは気に食わん。」
そう愚痴るように呟いたのは、蔵人の緋勇龍麻朝臣の小舎人として表向き仕えている、犬神杜人だった。
犬神は台盤所(現代の台所)から緋勇の為にこしらえられた夕餉の膳を、曹司に運び入れた所だった。
「どう、なされたのですか?犬が…いえ杜人。」
犬神に指摘されて以来、緋勇は犬神の事を出来るだけ呼び捨てるようにしている。
つい先日、この曹司の中で犬神は緋勇の身体を組み敷きながら艶言のように呼び捨てるように言い含めたのだが、元来真面目な性格であるので御上の命の恩人である彼に対しての丁寧な言葉遣いはどうしても直らなかった。
なので少し妙な口調になってしまうのは仕方が無いと、犬神も諦めたらしい。
ふと緋勇を見れば、彼自身も犬神の名を呼んだ事でその事を思い出したのだろう、傍目でも分かるようにその白い首筋を紅に染めていた。
その様子を面白そうに横目で眺めながら、緋勇の横に膳を置いた。
「どうもこうも、ここにいる奴らは何かというと身分を振りかざす。やれ自分は八位だとか従七位、盤所の奴らまで双なのだから呆れてしまう。」
怒る、というよりも呆れたような口調だった。
犬神の自由な気質は、この宮中の空気には合わないのだろう。
緋勇自身も身分によってあらゆる事柄が制約されている現状に不満が無いわけではなかったが、それをどうこうと言える立場でも、たとえそれが許される身分にあろうとも何よりも、今上帝に対しての忠義が許さなかった。
「それだけ自分の仕事に誇りを持っているのでしょう。怪異が収まる少しの間、辛抱してください。」
「誇り?はは、誇りを翳して銭をせびるような連中の誇りなんぞ、たかが知れよう。」
宮中でも下賜された物を懐に入れ、それを売って日銭を稼ぐ者は少なくは無い。
その辺りの情報は京一に教えてもらったのだが、恐らく無位の犬神も似たような事をされたのだろう。
「……すいません。」
「何故お前が謝る?」
何となく、宮中内の事情で自由奔放な犬神を縛り付けているような気分になり謝ってしまったのだ。
自分でもよく分からなかった。
当の犬神はあまり気にもかけていないように、手際よく膳を整え白湯を器に汲み緋勇に差し出し、そこで犬神はふと思いついたように緋勇に話し掛けた。
「お前もか?お前も自分の仕事に誇りを持っているのか?」
受け取った器から、ほんのりとした温もりが伝わる。忙しい緋勇の為に飲みやすいようにと温いめの白湯を用意してくれた犬神のちょっとした気遣いに、彼の心もほんのりと温もる。
その温みの残る余韻を言葉にするように、周囲に聞こえぬように声を落として語り始めた。
「はい、とても誇りに思っております。私は、私と御上は一度権力闘争に巻き込まれた事がありました。私の父はご存知の通り先帝であり、今上帝とは異母兄弟になります。ですが、私の母は身分が低く、しかも継承権から見てもずっとしたでありました。にも関わらず周囲の方々が次身帝に私を担ぎ上げ……、結局私と母は宮中を追われることとなったのです。本来ならそこで私は仏門に入るところを、兄である御上は破格の身分と、そして側に仕えることを許して下されたのです。そのお蔭で何とか今の暮らしを築き上げられたのです。兄がいなかったら、京一や、それまで世話になった彼らを路頭に迷わすことになっていたでしょう。」
そこまで話し終えると、緋勇は一口白湯を啜り、ほおっと息を吐き器を膳に戻そうとした時、突然緋勇の持つ器の白湯がさざなみ立った。
何事かと思うと次いで床や几帳が小刻みに揺れて始め、大気が何かに呼応して振動している。
その中心に、犬神が文字通り地を震わすようにくぐもった笑い声を押し殺している。
「も、杜人?」
呼びかけに応じて犬神が顔を上げた。
すると瞬時に全ての景色が闇に飲まれ、その中で犬神は青白く光る双眸で緋勇を捕らえた。
「くくく、面白い。面白いぞ、龍麻。」
突然起こった事象にも緋勇は驚きを隠せなかったが、それよりも犬神の言葉にそれ以上の動揺を覚えた。
「な、何が面白いというのですか?」
「お前が話したのは周囲の事情。お前自身は少し違うのではないのか?」
その言葉に緋勇は思わず手にしていた器を落としてしまった。
周囲が闇に閉ざされている空間で、床に落とした器のけたたましい音と、からからと転がる様がこの場所にひどく場違いだったが、緋勇はそんな事よりも犬神の言葉に囚われていた。
「な、何を……」
「お前は、確かに次期天皇に担ぎ上げられたかもしれぬ。だがその事をお前自身も受け入れようとしていた。何故なら天皇になれば権力が持てる。権力とは何か?それは力だろう。力があればそれまでお前が募り悲しんだ事の少なくとも半分は解決できる。ならばいっそのこと……」
「違うッ!わ、私は!!」
犬神の言葉を遮るように緋勇は叫んだ。
いつの間にか周囲の闇は嘘のように消え、蝋燭の薄明かりが部屋を照らし出していた。その蝋が、虫の羽音のようジジッと燃える静かな音と、犬神の低い声音が混ざり合う。
「違う?何が違う。誇り?それは誇りでは無いだろう。お前のは、贖罪の裏返し……。」
「違う、違います……。私は……」
緋勇は両手で顔を覆った。
指の間からは嗚咽と涙が漏れるが、犬神は容赦なくじわりじわりと攻め立てる。
「何を動揺することがある。人ならば、人間であるならばそれぐらいの欲望誰とて持ちえるものだろう。それは別段罪でも何でもない。」
「違う……違う、私は、そんなつもりで話を受けたのではなかった。兄を、兄を苦しめるつもりは無かった。でも結局私は、私は兄を……。」
なおも打ちひしがれる緋勇に犬神は突き放すように、いや、それは止めを刺す獣の牙のように緋勇の喉笛を切り裂いたのだ。
「それも違うだろう。お前は、兄を突き落とす決意で、天子の座を望んだんだ。」
その言葉は、緋勇の白い身体に突き刺さり滲むように彼の身体を覆っていく。

最早彼の心は血の色に染め上げられている。
その様子を、犬神は愉悦に浸るように愛しげに見守っていた。
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