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そんな事は分かっていた。
人に言われなくとも、声高に言われなくとも、人の口の端に上る噂などを頼りにしなくとも。
己がよく分かっていたことだ。
たまたまこの身分に生まれただけのこと。
たまたま己の母が、祖父が、欲に塗れた権力を振りかざしていただけのこと。
その血筋に、欲望に、己の器量が追いついていないこと。

己が凡夫であることなど、当の昔に自覚していた。

だが、比べられる対象がいるということは、ますます己の無力さを自覚すということ。
ましてや、その対象があたかも真の天子に相応しいなどと言われれば、自ずと卑屈にもなろう。
天子は、誰が何と言おうとも、この己だけなのだ。
生まれた順番が、生まれ出でた血筋が、天子は我だけと告げている。
たとえ中身が凡夫であろうとも。

それは我だ。
我だけなのだ。

奴ではない。
奴ではないのだ。

それでも、それでも奴の才が、美貌が、目が、私を天子から引きずり落とそうと虎視眈々と狙っている。
いっそのこと、
いっそのこと死んでくれればいいと何度思ったことか。
だが、幼い頃の奴が我を兄様と慕う声が、私を淵に押しとどめている……。




(真にそう思うのか?)
眠りから覚めた私に語りかけてくる声がした。
あの、女ではない。
だが恐ろしい。
とてつもなく恐ろしい声が私に語りかける。
「だ、誰じゃ?!ここが天子の寝間だと知って入り込んだか!!」
そうだ、誰かこの不届き者を殺せッ!!
「誰かッ!こいつを殺せッ!!」
(我を殺せと簡単に命じられるのに、あの者だと躊躇うのか)
「な、何……?」
こ奴は、知っているのか?我がいつも抱いているこの妄執にッ!?
(ああ知っているとも。)
「知っていると?」
(あの者に、死んで欲しいのだろう?だが殺したくても殺せない。弟だからだ、と……)
「……そうだ、あれは、朕の弟。朕は凡庸だ。凡庸が故にあ奴と比べられる。幼い頃からずっと、だ。」
その嫉妬は積み重ねられ今や、殺意に変わってしまった。
「だが、死んで欲しいと願う一方で、あやつは朕の弟。小さい頃は、二人で遊んだこともあった。だから……」
何故、我は怪しげなこの声に、答えているのだ?
(く、くくッ……)
「何じゃ?何がおかしいッ!!」
(真にそう思うのか?違うだろう。例えば、あれが血の繋がらぬ赤の他人でも、お前は殺せぬだろうよ。)
我の心臓が、一瞬跳ね上がった。
何故じゃ?何故そのような戯言で我の心はかき乱される?
(お前は天子だ。誰かに命じて密かに殺せばいいではないか?少なくともお前はそれが許される立場にあると思っているのだろう?)
そうだ。我は天が申し子。
天意そのものぞ。
だが……あれは……
「あれは、あれは朕の弟……。」
(まだそのような戯言を言うのか?お前はただ恐ろしいだけだろう。あれが死ねば間違いなくお前が命じたと誰もが思うものな。もしかして怨霊になって自分を呪うのだろうか?それとも、あれを慕う人間が自分を殺しに来るのではないのか?と、恐れているのだろう?)
ああ、何故だ。何故あれが天子の座を狙っているんだ。
天子はこの我しかいないのに。
もうそうと決まっているのに。
何故あれは我の側にいるのだ?
もういいではないか。
死んでくれればいいのに、ああ、だが我の預かり知らぬ所で死なれては、後が怖いのだ。
「怖いのだ。あれが死んでは困るのだ。知らぬ所で死なれても、目の前で死なれても、恐ろしいのだ。あれが、あれが何になるのか。朕の周囲で何が起こるのか、何もかもが恐ろしい……」

怖い怖い怖い怖い怖いッ!
朕はあれが恐ろしくて何も手が出せぬのだッ!!

(ならばあれをくれぬか?)
今、闇の声は何と言った?
(お前の勅で殺すのも、預かり知らぬ所で死ぬのも、どちらも恐ろしいのだろう?)
「ああ、恐ろしい、どちらも駄目なのだ。朕はどちらも恐ろしい。あれに手を出すのが恐ろしい……」
(ならばあれは、我がもらおう。なあに、決してあれを殺そうというのではないぞ。ただ我が、手に入れたいだけなのだ……)
ああ……今闇の声が天啓に聞こえるではないか。
そうだ。
死なぬものなら、誰かにくれてやればいい。
それも朕の目の届かぬ所へ。
(ああ、そうだ。お前の目に届かぬ所へ貰っていくさ。良いな?)
「ふ、ふははは、ああッ!!いいともッ!!くれてやろう、攫って行くが良いさッ!!物好きな妖物よ、感謝するぞッ!!」
(契約、成立だな。では次の満月の時、桜の庭にて待っているぞ……。)
そうか、そうか。
次の満月の夜には、長年の病から解き放たれるのか。
あの闇の声が何者でも構うまい。
ああ、何と満たされた気分なことよ。
これほど清清しい気分は幾年ぶりか……。
そうだ。
そうと決まれば、最後の宴ぐらいは催してやらねばななるまいて……。
早速、大臣達を召そうかのう……。



それは、密かな密かな、契約の徴。

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