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「裏切られたって恨むことが出来りゃあよかったんだがな。そんなこと、思えもしなかった。負けたって思ったんだよオレは。尊敬すらした。いや……圧倒されたのかもしれねえなあ……」
オレに別れを告げた時のアイツが今まで見た中で一番綺麗に輝いてたんだ……、なんて、さ。ぼそりと、吐きだした上条さんの気持ちが、俺にはよくわかってしまった。
恨みにも、思えないんだよ。
すごすぎて。
俺のことなんか見ないハハオヤ。歌ばっかり歌って音楽ばっかりに魂捧げて。
子供の時の俺が腹減らしてても熱出して泣いてても。ハハオヤが音楽にのめり込んだら気がついてもくれない。痛い痛い痛いって俺がハハオヤの足元で喚いているのに気がつかない。無視してるんじゃなくて、本気で俺の存在に気がつかないの。音楽だけに頭が行って、俺の存在なんか見えてないの。
でも、そんなハハオヤは、本気で神様みたいに美しかった。
天国で、神様が歌ってる。
何度そんなふうに思っただろう。
恨みになんか思えないくらい、ハハオヤのその歌に圧倒された。
痛いって喚くのも忘れて、俺はハハオヤの歌声を聞いた。……魅入られたって方が正しい。魂ごと、俺の全部、ハハオヤの歌に飲み込まれた。いや、俺自体が音楽そのものに魅入られてしまった。
嫌いになれればよかったのに。恨むことが出来れば楽だったのに。音楽なんか愛さなければよかったのに。
そんなこと出来もしない。
確かに、負けたんだ。
俺はハハオヤに、上条さんはその大女優に。
俺を見てもくれないハハオヤの歌が、子供の時の俺の神様。
だってさあ、腹減ってるのくらいだったらそんなの我慢するから歌をもっと聴かせてくれって思っちゃったんだよ子供の俺は。音が、命。音楽に魂捧げても後悔なんてしないだろう。きっと、腹減りすぎて餓死とかしても、その時歌が聞こえてきたら俺はそれで満足しちまったに違いない。……ま、死ななかったけど、ね。聞いてるだけでよかった歌を俺が自分で歌いだしたのは自然な流れだった。ハハオヤ不在の時、俺が一人で留守番とかしている時。ハハオヤがいなくて寂しいじゃなくて、歌が聞けないことが淋しいだったんだもんなー。子供の時の俺は、ホント馬鹿じゃねえのかって思うよ。そんなんで、一人の時はハハオヤの歌、思い出して、自分で歌った。何時間も何時間もずっと、メシなんか食べずに、ひったすら歌ってた。音楽っていうくらいだからさ、音は楽しいんだ。楽しくて、仕方がなかった。狂ったように歌ってた。それで満足だった。……俺も、ハハオヤのこと責められない。音に狂ってのめり込んで。音楽を愛している。
だから。
負けたのに、恨みにも思えない。戦いの、土俵に上がる気もしない。ノックアウトされたボクサーが、リングの上で大の字に寝っ転がってそのまま。完敗。以上終了、ゲームオーバー。……情けない。

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