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XXX 年齢

彼女の気持を考える 彼女が喜んだ事 悲しんだ事 怒った事 泣いた事 すねた事 笑った事・・!
彼女を抱きしめた時に、自分は何を考えていたのだろうか? 彼女と買い物をしている時は?
彼女と映画を観ている時 彼女と食事の時 彼女とエッチをしている時 彼女と海へ行った時 彼女と一緒に楽しんでいたハズじゃあなかったのかな!? 彼女を無視していたか? でも今回の中国での業績は彼女の御蔭で有り感謝し切れない 若しかすれば彼女は俺に利用されていると思っていたのか? 否めない事実だが最良の敬意も払っていた心算だったし、彼女も快く協力してくれた事で問題無いと思っていた 彼女の存在無くして今後の自分はどうすれば良いのか分からないよ 無理難題を言った事も無い 約束を反故にした事も無い 何故?何故?
それとも彼女が無理やり合わせていたのだろうか? 全ての事が、京子と結びつけて考えちゃうんだよ
厭々、それ以前に彼女が居なくなった直接の原因は、妊娠をしたのかもしれなかった点なのである
自宅の電話番号も知らない間柄なんて、今考えてみれば可笑しな話だ
携帯電話しか知らない間柄なんて、普通の感覚じゃあ無いよな
でも彼女のお母さんの事も俺から訊く事も無かったし、彼女も詳しく話をしなかった
俺も自分の親とか家族の事を話していなかったな お母さんとも逢う事が無かったが、自分の親元へ紹介する事も無かったなぁ 今思えば、自分達二人だけのエゴイズム(egoism)だったのか!?
良く言われる事だが、個人主義(individualism)とは違う 
個人の個性と人格を重んじ、価値と意義を強調する事である 自分が、自分自身の気持を労わる事なのだ
利益・快楽・主張を優先するもので有ってはならない 自分の思いのままに、自分勝手な事とは違う点である
やはり彼女は、俺の我が儘に合わせていてくれたのに、俺自身が気付かないでいただけなのか、気が付かない様にしていたのか、自分の気持が曖昧で、いい加減で腹立たしい
小さな子供が親から暴力を受けて育つと、子供が大きく成った時に親と同じく暴力で相手と接するのだ 暴力と愛情は全く異なるのに、自分の表現力が歪曲しているんだよね 生物で有る以上は、親子間に於いても愛情を注がれていないと精神的に満たされない為に、自分本位な自己中心的な人間に成ると思われる 思い遣りを持つ尊さを教えるべき人間も生活環境に因って左右されるが、子供の時の思い込みの強さが結果として成人してからの生活を変える場合も有る筈 人生に駆け引きは必要だし正直者が馬鹿を見る時も有るが、自分が何処まで過ちを享受出来るか、信念を何処に置くのか、精神的に強固で無いと相手を思い遣る所まで気持が廻らないかもね
京子に対して知らず知らずに傷つけていたかもしれない 自分で自分を責めるから京子も俺を嫌に成ったのだろう 融通が利かない人間は自分が、融通が利かない人間だとは思わない 別にどんな事でも良いのだが自分の自己性格診断と、友人・知人が自分に対する評価は違う場合もあるのだ 何処かの本に書いて有ったが、接し方のルールが分からずに知らずに他人を傷つける場合も有るのです 例えば子供が年配の方に向かって「おばあちゃん腰が曲がっているけど痛いの?」と訊いた時は「何て優しい子だろうか!」と思うが、明るく元気に大きな声で「おじいちゃん先生さようなら!!」と挨拶する生徒は良い生徒だが、立ち止まってチョッと考えると悪意が無いだけに周囲の反応は兎も角、先生本人の捉え方も難しい心理にしてしまうのだ 年寄りは自分が年寄りだと思うから年寄であって、年寄だと思わなければ年寄りでは無いのだ! 年齢に見合う姿は自分が勝手に作り上げるのでは無いのかな・・ と思うよ 六十歳と思えば六十歳になるし、八十歳でも精神年齢は意外と自分自身は五十歳と思っていれば、六十五歳ぐらいで通用するかも知れないものね まぁ肉体年齢が実質何処まで通用するのかは日頃の心掛け次第だろうけどねぇ 歳を重ねて頭(こうべ)を垂れる事も必要だが、時には押し付けも必要かも知れないね まぁ加減は、長年のキャリアが有るだろうから手加減塩加減なのだろうけどなぁ でも二十代から三十代は時として一方通行の場合も考えられるよね 今回は自分の不安定の気持ちが彼女を遠ざけたのかもしれない 自分の独り言が、自分の押し付けがましい意見が、自分の自分が・・!?  結局京子でなければ答えは見つからないのである